「アフィリエイト」とは・・・

まず、私のこのブログの右欄「読んだぞ!リスト」をご覧ください。
「読んだぞ!リスト」に掲載されている本の中から、あなたのお好きな本のアイコンをどれでもマウスでクリックしてみてください。「Amazon.com」にリンクされておりますので、即座にアマゾンのサイトに飛び、その本の詳細を調べることができます。さらに、そのままその本をアマゾンのサイトで購入することも、もちろん可能です。
そして、この場合、なんと !!「購入額の3%」が私に支払われる仕組みとなっております。

斯くの如くして、ブログなどのウェブサイトが、アマゾンなどの企業サイトにリンクを張って、閲覧者がそのリンクを経由してその企業のサイトで商品を購入すると、リンク元サイトの主催者に報酬が支払われる広告手法を一般に「アフィリエイト」と申します。

読者の中には、「おまえに3%もの取り分をもうけさせるのは、間尺に合わない。もうけた分をおごれ !!」とおっしゃる方もままおられますが、ご安心ください。
私が「Amazon.com」とアフィリエイト契約を開始してからかれこれ三年が経過しようとしておりますが、この間に私が取得するべき紹介料は累計でわずか78円という報告を受けております。
これを3%で除しますと、2600円という数字が出てきます。
すなわち、このことは読者のうちのどなたかご奇特なお方が、私のブログの右下「読んだぞ!リスト」からアマゾンのサイトに飛び、大枚2600円の本を購入した方がこの三年間にお一人だけいたことを意味しております。

なお、アマゾンとの契約では、この紹介料が五千円に達し次第、私の口座に現金が振り込まれることになっております。
したがって、三年で78円ということは、このペースで推移しますと、紹介料の累計額が五千円を超えて、実際に振り込みが行われるのは、なんと !! 192年後ということになります

ということで、私にアフィリエイトの恩恵が実際に及ぶのは、どう考えても今世紀中にはあり得ないと言うことをおわかりいただけたと思います。
皆様、ご安心いただけたでありましょうか・・・・

ということで、どなた様も遠慮無くドンドン「読んだぞ!リスト」から本を買ってください。

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昔「ごますり」、今・・・・

どうやら今は死語になってしまったようですが、「ごますり」という言葉があります。
昭和三十年代に全盛期を極めたあのクレージーキャッツの植木等と作者の青島幸男によって全国に流布され一世を風靡した言葉の中の一つです。
もちろん、プラスイメージの言葉ではあり得ません。
強いて定義づければ、
「上司にこびへつらい、お追従の限りを尽くすことによって、自らの立身出世を画策する小心者の呼称。多くの場合、仕事の能力も低いサラリーマンを指す言葉」だったはずです。
そして少なくとも我々団塊の世代の中では、「真っ当なサラリーマンとして許されざる情けない態度」というのが、共通認識だったはずです。

しかし、あれから四十年以上が経過した今、改めて考えると、いつの間にやら「ごますり」という言葉はほとんど聞かれなくなっていることに、気がつきます。
なぜでしょうか ?
ひょっとして、許されざる悪しき就労態度として、全国の企業や役所から駆逐され尽くしたのでありましょうか ?
もちろん、そんなことはありません。

ちょっと立ち止まって考えてみてください。むしろ、かつて「ごますり」と形容された就労態度は、実は今まで以上に企業や役所を席巻していることに容易にお気づきになるはずです。
しかも、驚くべきことに、この四十年の経過の中で、「ごますり」はそれまでのマイナスイメージからプラスイメージに、百八十度の転換に成功してしまっているのです。
そして、ご承知のように、最近の若手職員にとっては、少なくともエリートを目指すのであれば、最低限身につけていなければならない基本的な勤務態度として、受容されているのであります。
これを嘆かわしいと受け取るか否かは、ご自由なんですが・・・・

なお、今は使用される言葉も代わったようでありまして、もう「ごますり」とは言いません。
・・・・・・

今は、「ホスピタリティが優れている」と表現するそうであります。

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追い抜かされること

還暦を前にした今日この頃、職場との行き帰りに街を歩きながら、卒然と気がついたことがひとつあります。
後ろを歩いている若い人に(それも若い女性にすら)たびたび追い抜かれるということなんです。
くやしくなって抜き返そうと一度は思うのですが、どうしても抜けません。おもわず、いつ頃からこんな情けない状況になってしまったのかと、力無く考え込んでしまいます。
そして、ヨタヨタ歩いている方々を次から次へと颯爽と追い抜いていた私の若い頃を思い出してみます。私には、ついこの間のことのように思えるのですが・・・・
その思い出の中でも、とりわけひとつの鮮烈なエピソードをまざまざと思い出すのです。

あれはまだ私が三十歳を少し過ぎたばかりの頃のある朝のラッシュアワーでのことでした。
いつものように、大手町で地下鉄を降りた私は、通勤者の雑踏で大混雑の長い地下道を、今と違って気持ちよさそうに早足で職場に急いでおりました。それこそ、前を歩く通勤者を次から次へと追い抜いておりました。

その時、私は突然かかとを踏まれたのです。
私のかかとを踏んだ男は、何のわびも挨拶もせずに、無言で私を追い抜いていったのであります。
その男のあまりに礼を失した態度に激しい怒りを感じた私は、件の男を見失うまいとしっかりと見据えながら、雑踏の中を追いかけました。

みなさん、その後私はどうしたと思いますか ?
なにしろ、血気盛んな今から三十年くらい前の私です。今の私には、絶対に考えられない行動に出たのです。

その男を抜き返したのです !!
おまけに、抜き返しざまに、その男のかかとを踏みつけ返したのです。

男は一瞬何が起こったかわからなかったようですが、一拍おいて我に返り、「なんだ ! おまえ!」と大声を出しておりましたが、その時には私はもう既にその男のかなり前を歩いておりました。

この話の最も面白い部分は、実はこの後なんです。
抜きつ抜かれつ、相前後して大手町の長い地下道を早足で歩くふたりの男たちは、なんと ! 最後まで、すなわち私の職場のビルの入口まで、一緒だったのです。
要するに、同じ職場に勤務する者同士だったんです。

しかし、バカだったよねぇ・・・・


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団塊世代の無理矢理カップル

少なくとも今をさかのぼるわずか三年前の平成17年春の時点では、この東京を散歩する熟年の人たちの典型的パターンは、孤独な「リュックのおじさん」か、団体の「帽子のおばさん」のふたつのパターンでした。
こうしたおじさん&おばさんの状況については、このブログの中で当時私が詳細にレポートしておりますので、是非リンクをたどって改めてご一読いただきたい。(なお、私としてはこの二本の記事は、僭越ながら自薦ベストワンと自負しております)
何より強調しておきたいのは、これが「わずか三年前」であったという事実なんです。

さて、それでは三年後の現在は、どうなっているのでありましょうか ?
この連休に私が都内を歩き回った限りでは、映画館でも、美術館でも、博物館でも、はたまた散歩にしても、団塊の世代以上でリタイヤー組の夫婦連れと思われるカップルが異常に多いことにびっくりさせられます。
この三年間の変化と言えば、団塊世代が続々とリタイアーしつつあるということですね。ということは、団塊世代はもともとカップルでの行動が多かったと言うことなのでありましょうか ?
それとも、前総理大臣の安部晋三氏のあのいつでもどこでも嫁さんと手を繋いでいる姿が思わぬ影響を与えたのでありましょうか ?

もちろん、私が主張したいことは、「カップルで行動するな !」などというとんでもないことではございません。仲の良いカップルが楽しそうに休日を一緒に過ごしている光景は、ほほえましくて気持ちの良いものです。

しかしながら、現実の団塊世代のカップルの多くがそうではないから、私は問題だと主張しているのです。

まず、団塊世代のカップルには、若い頃からふたりで楽しくレストランで食事をしながらおしゃべりするという習慣があまりなかったのではないでしょうか。
たとえば、私がかつて夏のバカンスを家族で旅行したときのことを思い出してみますと、夜のホテルのレストランで一緒に食事をした同じツアーの夫婦連れは、ほとんどのカップルが不思議なほどほとんど会話らしい会話をしていませんでした。かろうじて交わされる会話のほとんどは子供に対するものでした。(もちろん、我が家は違いますが)
若いときからそうであっただけに、リタイアー後の無会話状態は一層ひどいものがあります。

であるにもかかわらず、「お一人様」での行動をとる勇気がないためなのか、お互いに無理矢理カップル行動を強いているのが見え見えなのです。
「お一人様」の勇気がない人には、「愛人とのカップル」での行動の勇気などさらさらあるわけがありません。

私に言わせれば、無理強いのカップルによる無言の食事は、お互いの尊厳を傷つけ合う拷問のような気がします。
そんなことなら、お一人様の方がずっと美しいと思うのですが・・・・

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戸越銀座商店街を歩く

個人的に前から気になっていた「戸越銀座商店街」を歩いてみました。
この商店街は、東急池上線「戸越銀座駅」に接する全長1.6kmに及ぶ日本一長い商店街です。
時間帯を区切っての歩行者天国の実施や車いすでも入れる店舗入口でのバリアフリー化を行うなど、商店街活性化のための仕掛けによる活発な意欲を感じさせられます。
商店街は、「商栄会」「中央街」「銀六会」の三つで構成されます。
私はかなり繁盛しているスーパーでも閑散とせざるを得ない日曜日の午前中を歩いたのですが、もう既にかなり多くの客が詰めかけており、ほとんどの店が開いており、さすが日本一の商店街と思わせる活気でした。また、客層も若い人が多いのが目に付きました。

連担する三つの商店街の全てで1.6kmと言われておりますが、事実上は隣の「旗の台駅」まで、途中ところどころ途切れながらも、「宮前商店街」そして「ゆたか商店街」へ延々と商店街は続きます。
すなわち、全部で3.7kmにもなんなんとする長大な商店街を散歩することができるのです。

ところで、歩き終えたところで気がついた不思議な光景をふたつご紹介します。

Sdsc00284 一つ目は、現在山の手から下町まで都内の全ての商店街を席巻している「オリンピック東京誘致」のバナー広告が全く見あたらなかったことです。
写真でご覧のように、商店街の街路灯には、グレイドの高そうなすてきなロゴを染め抜いたそろいのバナーが飾られているだけです。
これはどうしてなのでしょうか ?
商店街の美観なり品格なりを守ろうとする戸越銀座商店街の「矜持」なのか、はたまたお上の言いなりになどならないという「反骨」なのか、それともただ単に行政からの要請がなかっただけなのか・・・ わかりません。

Sdsc00283 二つ目の不思議スポットは、商店街がちょっと途切れるところ、むしろ旗の台駅に近い奇妙な場所です。
まずは写真をご覧戴きたい。
ここは道路ではありません。商店街のはずれにある、とある空き地にすぎません。
この場所になんと信号が2基もあります。何のためか全くわかりません。
何より信号というものは、一般の家庭がむやみに空き地に設置できるものとも思えません。
とっても不思議な光景でした。

こういうことがあるから、散歩は楽しいわけです・・・・

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あるクラシック番組の記憶

最近のテレビ番組は、おっそろしく下劣なものばかりで、このような番組を見ていては日本人の脳が腐り始めるのではないかと心配になるほどです。
ということで、今回は例によって「昔の思い出シリーズ」ということで、昔よく聴いた記憶のある印象的なクラシックの、あるラジオ番組についての話です。

「昔」とは、例によって昭和二十年代後半・・・私の小学校入学前の話です。当時のラジオは、現在と比較してかなり高い頻度でクラシックを流していたような気がします。
とりわけ、日曜の午前中のNHKラジオ第一は、ほとんどクラシック番組一色だったはずです。
したがって、私は今でも日曜の午前中はほとんどパブロフの犬状態で、クラシックをどうしても聴きたくなる禁断症状が出るほどです。
また、昭和三十年代後半に発足した現在の「FM東京」の前身の「FM東海」では、夜の通信制高校講義の「望星高校」以外は、ほとんどクラシックしか流していなかったはずですから、現在のFM東京とは隔世の感があります。

さて、話を元に戻して、昭和二十年代の毎週日曜日の午前十時頃から始まったはずのNHKラジオ第一の、あるクラシック番組についての私の記憶です。
題名は、残念ながら忘れました。

この番組は、いわゆる視聴者参加番組で、毎回出演者が3~4人出てまいります。そのほかに、司会者とこれも三人程度の審査員がいたはずです。
さて、出演者に何を競わせるかと申しますと、シンプルなんです。まず最初に出演者にクラシックの名曲を五分程度聴かせます。しかる後、それぞれの出演者に司会者が「今流れた曲を聴いて、あなたはどういうイメージが頭に浮かびましたか? 話してください。」と言うのです。
出演者は順番に頭に浮かんだイメージを話します。
たとえば「森の中を一人で歩いています。急に美しい青い鳥が私の目の前を飛び立ちます・・・・」などといった案配です。
最後に審査員たちが、それらのイメージの中で、最も表現力が巧みで、想像力の豊かなものを勝ちとして選ぶのです。

どうですか !!!
なんと志の高い、気高い番組でありましょうか !!
現在席巻している脳を腐らせる番組の洪水の中では、決して存在し得ない素朴で清らかな番組だとお思いになりませんでしょうか !!

しかし、この番組はなぜ消えてしまったんでしょうかねぇ・・・
残念ですねぇ・・・・

このラジオ番組のより詳細なご記憶のある方は、コメントいただければ幸いです。

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芥川龍之介の生家

200pxakutagawa_ryunosuke_photo都立両国高校に学んだ学生たちにとって、全員がもれなく誇りとする先輩はただひとり。芥川龍之介だということは、既に何回も書きました。
この芥川龍之介の生まれた場所が意外な場所にあります。
現在の中央区明石町10番、聖路加病院の敷地内となります。

芥川龍之介は明治25年(1892)3月1日、父新原敏三が経営する牛乳販売会社「耕牧舎」で生まれました。牛乳販売会社と言っても、普通の牛乳屋さんではありません。なにしろ、乳牛の牧場があったそうですから。聖路加病院の創設はその10年後ですから、ひょっとすると、「耕牧舎」の跡地に聖路加病院があるのかもしれません。

「耕牧舎」はもともとは、あの会社設立王と渾名された実業Sdsc00272 家渋沢栄一が興したもので、当時日本の牧畜業が不振であることを憂慮した渋沢は、明治12年神奈川県から箱根仙石原に土地の払い下げを受けると、牧場「耕牧舎」を開き、牛乳販売に乗り出しました。そこで働いていたのが、龍之介の父新原敏三です。
渋沢の信頼を得ていた敏三は、販路拡大のために東京方面の販売管理責任者となり、築地入船町に本店を置いたのが龍之介の生家というわけです。
今、聖路加病院にたたずみ、約106年前に牧場であった時代のよすがSdsc00273 を探しても、もちろん見つけられるわけがありません。
「耕牧舎」の事業は、順調に発展し、龍之介の生まれた頃の父敏三は、業界の長老格になっていました。ところが、龍之介が生まれてまだ七ヶ月しか経っていない時に、突然母親ふくが発狂します。

このため、龍之介は母の実家の芥川家に引き取られます。
場所は本所区小泉町15番地(現在の墨田区両国3-22-11)です。この地で龍之介は多感な少年時代と青年時代を過ごすことになります。住Sdsc00282 所を地図で追うと、現在はほぼ京葉道路沿いの北側、回向院のすぐそば、JR両国駅まで歩いて5分の至近距離であることがわかります。
幼稚園は回向院の隣にある江東尋常小学校付属幼稚園、小学校は今の両国小学校の前身の江東(なんとこれは「こうとう」とは読みません、「えひがし」なんだそうです)尋常小学校、そして府立三中(都立両国高校)までは歩いてもわずか15分程度の便利な場所に家があったわけです。生家とおぼしき場所にはご覧のような碑がありました。

龍之介十一歳の時に、精神病の母が亡くなったため、翌年叔父の芥川道章の養子となり、芥川姓を名乗ることになります。
芥川家は、江戸時代、代々徳川家に仕え、雑用や茶の湯を担当したお数寄屋坊主の家柄だそうであります。

龍之介は、生後七ヶ月で母の手を離れ、伯母のフクに育てられたため、母親とはほとんど会えなかったと思われますが、「母親が狂ったために母親の実家に預けられる」という境遇が龍之介少年にとって如何ばかりのものであったか。想像を超えたものがあると思います。
夢野久作の「ドグラ・マグラ」を読んでいただければ容易におわかりいただけると思いますが、当時の精神病患者に対する社会的な差別というものは、それはそれは過酷で激しいものだったと想像できます。
こうした環境のもとで龍之介少年は、回向院そばの実家から江東橋の府立三中まで、どのようなことを思いつつ、日々通っていたのか。

そんなことを空想しながら、芥川龍之介生誕地でしばらくぼ~っとしたいい時間を過ごせました。

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なくなった公衆電話

Telephon我々が気がつかないうちに、じわりじわりと事態は進行し、ある日改めて周囲を眺めてみると、もうすでに革命的な変化となってしまっている「静かなる変革」というものがあります。
ちょっと考えただけでも、たとえば「アナログレコードからCDへの変化」とか、「カメラのデジタル化」とかが頭に浮かびます。
実は、最近もこうした「静かなる変革」の中に付加されるべき大きな事件が起きていたということが判明しました。

それは「公衆電話の喪失」なんです。
あれは十五年くらい前になりますか、たしかNTTのCMだったと思いますが、とんねるずの石橋が神様然とした衣装を着て、天空から地上の木梨扮するさまざまな人々に対して、「み~んな電話にしてやる !!」と叫ぶと、地上の一人何役の木梨が次々に携帯電話になってしまうという印象的なコマーシャルがありました。
当時は今ひとつ意味が飲み込めなかった私ではありましたが、現代の携帯電話の圧倒的な普及状況は、まさしくこのコマーシャルのめざした世界が具体的に到来した姿なんだなと、しみじみ理解できます。

先日、たまたま携帯電話を家に忘れてしまった私は、出先でどうしても電話をかけざるを得ない用件が発生し、カバンの奥からもう何年も使っていなかったテレホンカードを引っ張り出して、公衆電話を探しました。
しかし・・・・
ないんです・・・・
公衆電話がないんです。

地下鉄の駅にも、駅の改札を出て階段を駆け上った商店街にも、あの見慣れた緑色の公衆電話は全く見つからないのです。
後からわかったことですが、今日ただいま東京で確実に公衆電話が存在する場所は、実はコンビニだったんです。
しかし、使ってみればすぐわかることですが、やっとたどりついたとしてもその公衆電話も利用頻度が少なすぎるためなのでしょうか、故障率が大変高いのです。(体感では三割以上はワークしていないように思えます。)

ことほど左様に、現在の我が国の携帯電話の普及状況は、限界を超えてしまっているようです。

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絶賛 !! 「タン・ビエットの唄」

Tanbietto 第10回東京芸術劇場ミュージカル月間作品 「タン・ビエットの唄」につきましては、既に左欄「映画鑑賞履歴」におきまして、私は満点の五つ星の評価をつけたところです。
これに対して、PIGLETさんからもほぼ同一趣旨の熱烈なる連帯の評価をコメントとしていただきました。ありがとうございました。
しかしながら、私としましては、これだけの作品がなぜ劇評としては掲載されないのか大変不思議だったのですが、満を持して2月20日の毎日新聞(夕刊)に絶賛の劇評が載りました。
以下、異例ではありますが、掲載記事を転載いたします。

 毎年2月、東京・池袋の東京芸術劇場は「ミュージカル月間」と題し、国産のオリジナルミュージカルを特集している。10回目となる今回は、えりすぐりの作品が集まった。【高橋豊】

 2弾目ですでに上演は終わったが、TSミュージカルファンデーションによる「タン・ビエットの唄(うた)」が、特に優れた舞台だった。演出・振り付けが謝珠栄、脚本が大谷美智浩、音楽が玉麻尚一。

 表題はベトナム語で「さよなら」の意味。ベトナム戦争で離れ離れになった姉妹の運命を描く。虐殺の村で奇跡的に助かった2人のうち、英国人の養女 となった妹フェイ(安寿ミラ)が20年ぶりに祖国へ戻り、生き別れの姉ティエン(土居裕子)を探す。そして、かつて彼女らと一緒に行動した南ベトナム解放 民族戦線の5人の男性と再会し、過酷な現実と向き合って……。

 大ヒットミュージカル「ミス・サイゴン」が欧米人の視点からベトナム戦争を総括したのに対し、「タン・ビエットの唄」は、同じアジア人として激動 の時代を生き抜いた人々を、共感を持ってとらえている。主題曲「タン・ビエットの唄」など、玉麻の音楽が繊細なアジアの人の心をよく伝え、謝の振り付けが たおやかで、かつ力強く群像を描き出す。

 4年ぶりの再演だが、初演より舞台が深まった。土居、安寿はもちろん、5人の旧兵士にふんする畠中洋、吉野圭吾、宮川浩らが好演した。

 ミュージカル月間の最終演目は、音楽座ミュージカル「リトルプリンス」(21~24日)。原作はサン=テグジュペリの名作「星の王子さま」で、テ グジュペリの生き方や思想まで描いた意欲作だ。脚本・演出がワームホールプロジェクト。音楽座は過去に2回公演し、いずれも好評だった。

以上です。
再度申し上げますが、ほとんどの団塊世代がその青春時代の真ん中で、多かれ少なかれ何らかの形で関わった「ベトナム戦争」。
そして、米国が南ベトナム解放民族戦線に完膚無きまでに敗れ去り、撤退せざるを得なかった「ベトナム戦争」。
その後なぜか誰もの頭から消え去ってしまった「ベトナム戦争」。
このミュージカルは、そうしたベトナム戦争をある視点からあえて今この時点で振り返る総括と言えると思います。

毎日新聞の劇評には、団塊世代がこの作品に対して感じるはずの熱があまり感じられず、妙にクールなのが残念ではありますが、少なくともミュージカルとしての質の高さは認めています。
きっと評者が若いんだろうな・・・・

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見ました「母べえ」

Skaabeeこのブログの愛読者の方は、みなさん既に良くご存知のように、私は熱心なサユリストです。そして同時に、このブログの右上欄の写真にありますように山田洋次監督の寅さんの熱狂的なファンでもあります。
したがって、この映画「母べえ」のように、山田洋次監督、吉永小百合主演となりますと、私にとっては見るのが当然の映画ということになります。あまりにも見るのが当然となりますと、本人にとってはかえって見る義務感が発生してしまい、見ることが億劫になってしまうから不思議なものです。しかし、なんとか、億劫な気持ちを克服して見てまいりましたので報告します。

前にも書いたことですが、私はあまりにもヘビーなサユリストでありますゆえ、吉永小百合の映画を客観的には見ることができない習性を持っております。したがって、今回は思いつくままにランダムな感想を書いていきたいと思います。

●まず、総評から。
この映画はベルリン国際映画祭正式出品作品だそうです。そして、山田洋次監督はベルリンは4回目の挑戦だそうで、これまではどういうわけか無冠だったそうです。したがって、山田監督や吉永小百合の思い入れは相当強いと報道されています。
しかし、私は相当いい線は行っているものの、金獅子賞は今回も困難と見ました。ただし、二人の女の子は天才的な自然の演技でして彼女らは何かの賞を取る予感はありそうです。

●土曜日の朝10時10分開演という時間帯でありながら、ほぼ満員。どうやら観客の入りは、好調の様子です。客層は仲の良さそうな初老の夫婦がかなり目立ちましたね。これは、私の長い映画鑑賞歴の中でも稀有なことで、ちょっと驚かされました。おそらく、山田監督のこれまでの誠実な製作態度に対する信頼が、こうした安定した客層を支えているのでしょう。

●このテーマ、このキャスティング、そして監督山田洋次、ということであれば、類型的で古臭い反戦的映画ではないかとせせら笑う向きも多いと思います。
しかし、ご安心ください。どうやらこの心配は我々以上に山田監督自身が、そうしてはならじと肝に銘じたらしく、無用の心配でした。
すなわち、最後まで「戦争と人間」的な臭いシーンは出てきませんし、「反戦」の連呼もありません。これは賢明でした。しかし、それだけに普通の市民の誰でもが好むと好まざるとに関わらず戦争に巻き込まれざるを得なかった状況が、肩に力を入れずに描かれており、この点ではさすが山田洋次と思わせるものがあります。しかし、残念ながらこの点の恐ろしさが描かれていません。点が辛いといわれるかもしれませんが、ここが名画となりうるか否かの分岐点なのです。

●母べえの夫は坂東三津五郎。文学者であるが治安維持法である夜、特高に検挙されます。最後まで、転向はせず、獄死するのですが、ゴリゴリの闘士というわけではなく、ごくありふれたお父さんとして描かれるのが、だんだん効果を挙げていきます。
今の世の中、食うためには、出世するためには、金をもうけるためには、ぜいたくするためには、そして何より家族を守るためにも、右も左もどなた様も何につけやすやすと「転向」しているのが実態です。そうした意味では、あの時代も決して異常な過去の話というわけではないようです。

●母べえの義理の妹を演じるのは檀れい。
余談ですが、私は、とある美術館でこの方を間近に見る幸運に浴したことがございますが、この方は映画の設定どおりにこの世の者とも思えないほどの美人でございます。俗に美人の基準として八頭身と申しますが、檀れいの場合、私の目検討では九頭身でありまして、小顔も極まれりという方でした。

●さて、肝心の吉永小百合についてですが、「北の大地」よりははるかに好演です。これはおそらく山田監督に引き出されたものでありましょう。
しかし、今回も「よくやっている」「好演」に評価はとどまると思われます。どうみても実年齢の63歳には見えません。せいぜい45歳程度にしか見えないのは奇跡です。これだけでも表彰してあげられないものかと思わせるものがあります。

●詳しくはネタバレになりますので書きませんが、この映画はラストシーンがかなりいいんです。脚本による構成がいいんだと思います。
女の子二人は、成長して長女は女医(倍賞千恵子)に、次女は高校の美術教師(戸田恵子)になります。そして、このラストシーンで、われらが戸田のおねえがおいしい役をやっているんですわ。
おかげでほとんどの女性の観客が、ほぼ例外なくみんな涙を流しながら劇場を出てまいります。やっぱり、山田洋次は魔術師だなぁ・・・・

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「ラグビー選手に悪い人はいない」

Soosakagov 1月27日(日)の大阪府知事選は、無所属新人のタレント弁護士橋下徹氏の圧勝で終わりました。
この結果を受けて、町村信孝官房長官が記者会見で、町村官房長官も橋下氏もともに高校時代にラグビー部に所属していたことを念頭に、「個人的には、彼は大変なラグビー選手だということで、親しみを感じている。ラグビー選手に悪い人はいない。最近ちょっと大麻の栽培とか、いろいろ問題があるので、一概にはどうも、そういうことは言えないと思いつつも、大いなる活躍を期待している」と述べたそうであります。

今回はこの町村官房長官発言の真偽について、学生時代にラグビー選手の端くれだった私の立場から、検証したいと思います。
町村発言と似た言葉として、あるフランスの名ラグビー選手の言葉を思い出します。すなわち、「ラグビーは一番早く少年を大人にし、永遠に少年の心を持たせる」というもの。私の経験では、これらの言葉を検証しますと、結論は明快に「Yes !!」となります。

ところで、私が今回主張したいのは、「ラグビー選手に悪い人がいない」ことの真偽ではなくて、その理由についてなんです。
「なぜ、テニスやサッカーの選手には悪い人がいて、ラグビー選手はいい人ばかりなんだ !!」とお怒りの言葉が聞こえてきそうですが、現実は相当の確率で事実なんです。

その理由は、きわめて簡単なことでありまして、すなわち「ラグビーは打算でやるにはあまりに割に合わないほど、群を抜いて3K(汚い、苦しい、危険)」だということなんです。
テニスでも、サッカーでも、野球でも、ほかのスポーツにはどんなスポーツでも、かっこいいし、もてるし、就職に有利だしなど、何らかの打算を考える余裕があります。
しかし、ラグビーは(少しはそう言う効果はあるのかも知れませんが)そんな効果を完膚無きまでに粉砕してしまうほど、つらく、苦しく、危険で、汚い、そして何よりもくさいのです。このため、損得を考える余裕すら全く奪われているのが実情なのです。

その結果、ラグビー選手は誰でもひたすら勝利の解放感だけを夢見て、何の見返りもない果てしなく続く無償の苦行に耐え続けることになります。
要するに、損得を冷静に計算する打算から最も遠いところにいる人たちだけが、ラグビーをやっているのです。この人たちがいい人でないわけがあるわけないじゃありませんか !!!
「打算的な損得計算をする頭がないんだ !」と陰口をきく向きも一部にございますが、私には悪い人になる余裕すらあり得ない苦行だと思っています。

その「勝利の解放感」ですら、一年に数えるほどしか感じることを許されなかったわれわれ弱小チームの場合は、その苦しみは強いチームの何倍にもなるわけです。
したがって、私は言い直してこう断言させていただきたい。

「弱いチームのラグビー選手に悪い人はもっといない !!!」

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映画「殯(もがり)の森」

Smogari 他の人はどう見るのかわかりませんが、少なくとも私にとっては河瀬直美監督の映画はとっても難解です。
この映画も例外ではなく、「ドキュメンタリー映画」と呼ばれるべき河瀬直美独特の作風の典型となる映画です。

相変わらず映像の美しさは抜群で、映像にはこれ以上ないほど雄弁に語らせる一方で、せりふがとっても少ないんです。しかも、その少ないせりふが、ほとんど何を言っているか聞き取れないほど不鮮明ときているので、全体のプロットが今ひとつよくわからないのです。
河瀬監督はおそらく、映画にとってはせりふはもちろん説明自体が必要ないものであり、最小限で足りると思っているに違いありません。むしろ、せりふの奥にあるものに語らせたいと思っているはずです。

たとえば、デビュー作の「萌の朱雀」で、父親が自殺したことは、私には最後までわかりませんでした。
今回の「殯(もがり)の森」にしても同様でして、ストーリーを改めて確認してみると、まず第一に、介護福祉士の真千子は子供を亡くしたことがきっかけで夫と離婚したことになっているし、第二に、認知症のしげきは三十三年前に妻の真子が亡くなってからずっと妻との日々を心の奥にしまいこんで仕事に人生を捧げてきた仕事人間であることになっているし、第三には、何より真千子としげきが車で出かけたのは、しげきの妻の墓参りなんだそうであります。
以上三点は、映画のストーリー展開にとっては、きわめて重要な情報であることは当然であるにもかかわらず、私には全くわかりませんでした。
私の耳が悪いのかもしれませんが、河瀬監督はこれらの情報を映像から読みとる感受性を持つようにと観客に過大な要求を強いているのではないでしょうか。
これは無茶ではないでしょうか。

なぜなら、真千子の夫婦げんかシーンはたったの一回出てくるだけですし、しげきが仕事人間だったことは、全編のどこにもヒントはありません。
真千子としげきが二人だけで車で出かけたのは、てっきり仲直りのためのハイキングなのかなと私は思っていたほどです。

しかし、こうした河瀬監督の意図的な説明不足を超えて、心に残るシーンももちろん数々あります。そのいくつかをご紹介しましょう。

まず、冒頭の緑の中の長回しの葬式シーンは、印象的で大変美しいシーンです。このシーンだけで河瀬監督の非凡さが充分伝わってきます。まるで緑が息をしながら語りかけてくるようです。
真千子としげきが森の中をさまよう中で、しげきが激流を一人で渡ろうとすると、真千子が激しく泣いて止める場面。この迫真力は、真千子役の尾野真千子の演技力の確かさを証明するものです。私はこの時、しげきは自死しようとしていたと確信しましたし、真千子もそれを知っていたのだと思います。
最後にラストシーン。しげきと真千子が、森の中で一緒にしげきの思い出の品々を埋める場面。これは妻を失った認知症のしげきと、子供を亡くした正常な真千子が、しげきの認知症という表層の病気を超えた感情の奥深くの部分で、完全に共感しあって究極の癒しの状況に到達した瞬間だったのだと思います。この効果を出すために、しげきは認知症でなければならなかったのでありましょう。

Skawase しかし、これだけ説明不足で難解で、想像力を必要とする日本映画を

カンヌ映画祭グランプリ(審査員特別大賞)に選んだカンヌの審査員の先生たちは、本当にこの映画をわかって選んだんでしょうね ! よく理解できたものだと感嘆せざるを得ません。

せりふに頼らないからこそ国際的評価が得やすいのかもしれません。
(それとも、外国人にとってはスーパーインポーズがあるので、せりふがわかりやすいためであるような気もするけれど・・・・・)

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尿管結石

私は若い時から尿管結石が非常に出来やすい体質でありまして、そもそもの最初は今から33年前、私がまだ二十才台の半ばにまでさかのぼります。
真夜中、私が熟睡している最中にその激しい痛みが急激に私を襲いました。息も出来ないほどの激しい痛みで、私は布団の上で海老のように体をよじってこらえるしかありませんでした。その当時、まだ病気とはほとんど縁のなかった私は、病気に関する少ない知識を総動員して「きっと盲腸に違いない!」と勝手に自己診断して、なんとか翌朝まで我慢した後近所の救急病院に走ってかけつけました。
しかし、この時は病院の門をくぐった途端にケロッと痛みがなくなり、大げさに騒いだ手前恥ずかしくなった私は、そそくさと帰宅したのを覚えています。

二回目はその3~4年後でありまして、通勤途中の地下鉄の中で横腹から背中にかけて最初は鈍痛、だんだん激しく強くなる痛みに襲われました。
この時の私は前回の恥ずかしい轍だけは踏むまいと何とか家に着くまではこらえようと決意しておりました。しかし、痛みはだんだん人生でそれまで経験したことのないほどの激しいものとなり、とうとう最寄り駅の改札を出たところで、あまりの痛さに歩けなくなり、おまけに目の前が暗くなりだして座り込んでしまったのです。
心配する駅員に救急車を要請した私は、このときも救急車に乗ってしばらくして病院に到着する前には痛みが嘘のようになくなりました。この時は救急車の救命救急士から「あっ、こりゃ石だよ!」とあっさり真実の診断を初めてされたのです。

それからというもの、本日までの約三十年の長きにわたって、私の体内では概ね2~3年に一度の間隔で腎臓で結石を定期的に製造し、そのイガイガの結石が尿管をきりきりと引っかきながら落ちてくるのです。ということは、この三十年で私の体から十個以上の石が排出されていったことになります。最初の二回は救急車騒ぎであったことは書いたとおりなのでありますが、産道ができたということなのでありましょうか、三回目からは最初の激痛は不思議なほどなくなり、残尿感や鈍痛はあるものの、比較的軽微なまま順調に排泄されることがこれまでの通例でありました。

ところが、今年の6月頃からの石の痛みは前例のないものとなりました。すなわち、痛みそのものの程度は最初の頃のそれほどではありませんでしたが、なにしろ残尿感が桁違いにひどいのです。いくらトイレに行っても行っても残尿感は消えません。喩えてみれば、まるで結石によって尿がせき止められて出られないというような苦しみなのであります。当然の事ながら熟睡も出来ません。

尿管結石の治療法は何かといえば、最善の方法は、ただただ排泄されるのを待つことになります。医者からは薬といえば痛みに耐えやすいように座薬がもらえる程度なのです。
こうした過酷な状態におよそ半年耐えた後、さすがに自然排出は不可能と考えた私は、担当医に「衝撃波による破砕はできないか?」と相談しました。担当医の説明では第一の優先治療法は「内視鏡挿入による破壊」なのだそうですが、私は強く「衝撃波法」を熱望しました。だって、内視鏡をどこにどうやって挿入して破壊しようと言うのでしょうか?想像するだにおぞましい阿鼻叫喚の修羅場ではありませんか。
そして、最終的には私の要求が幸運にも通ることになりました。その結果、先週最新鋭の衝撃波破砕装置を備えている都立豊島病院で「手術」を受けたのです。(この場合、喩えて言えば歯医者の抜歯と同じような物理的性格のものではありますが、やはり「手術」という用語を使うようなのであります。)
この手術は若干の痛みはあるものの、私にしてみれば結石を体内に抱え続けるよりははるかに容易なことでありました。手術は成功だったと思います。翌朝、かなり大きい石と小さい石の破片が排出されました。
Sdsc00270 これで一安心で正月を迎えられるなとほっとしていた私です。しかし、退院して一週間も経ったこの大晦日になんと!なんと!!またまた結石が排出されたのです。それも写真でご覧のように相当に大きい石でした。
これも衝撃波で破砕された結石の片割れだといたしますと、はたしてもともとの結石は恐ろしいほどの大きさだったものと推測されます。
ということは、それだけのばかでかい結石がむしろ腎臓から膀胱近くまでよく無事で落ちてきたものだと感心させられました。
というよりも、衝撃波による破砕というオペレーションは必要だったものの、体内に滞留せずに無事に体外に排出されたわが身の幸運に思わず合掌したくなったのであります。

折りしも来年は私にとって人生最後の前厄の年となります。
川崎大師に厄除けに行かなくっちゃ!!

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ヨーロッパのATM

私がヨーロッパへ出発する際は、先達から細々とした便利情報を教えてもらったものです。
その中でも、とりわけ「なるほど !」と膝を打った情報の一つに、「ヨーロッパはカードが使える店が多い。したがって、現金はあまり持っていく必要がない。」というのがありました。
このため、ヨーロッパはスリが多いという事前情報もあって、私は最小限のユーロしか持参していかなかったのであります。しかし、カードなんてものは、一流レストランとか、ホテルとか、土産物店などでこそ使用可能でありまして、カードでアイスクリームは買えません。電車にも乗れません。なにより、高額な現地オプショナルツアーは現金払いでありました。
その結果、私は旅行の後半には、現金が決定的に不足するという深刻な事態に突入してしまったのです。

さて、ここでお立ち会い !
ヨーロッパで現金ユーロの持ち合わせに不足するという逆境において、われわれ旅行者はどうすればよいと思いますか ?
実際に経験してみて、実は予想以上に解決策が限られていることに、私は驚かされました。

事前に予習していた解決策はいくつかありました。
まず、最も正攻法と思われたのが、旅行案内書の中に日本の銀行のキャッシュカードでもヨーロッパで使用可能なものがあるという情報がありました。
キャッシュカードのどこかに「Cirrus」というロゴが書いてありさえすれば、ヨーロッパの銀行のATMで使用できるというものです。
しかし、これは何かの間違いだったのでしょう、ヨーロッパの当該在外邦銀(私の場合はみずほ銀行)の支店のATMでのみ使用可能だったようです。そこで、みずほ銀行のパリ支店を探してみましたが、現地人のほとんどが知りませんし、最終的になんと存在もしていないということが判明しました。我が国の銀行は、国際標準での競争を可能とするために、パリ支店ですら不採算な支店として、ドンドン店終いしてしまっているのです。

第二の方法は、日本にいるときにCitiBankで口座を作って、その国際キャッシュカードを申し込むという方法です。ヨーロッパには結構たくさんのCitiBankの支店がありますから、これは比較的容易な方法だったかもしれませんが、残念ながらこの方法は帰国してから教えてもらったものです。

そして、残された方法はただひとつ。
クレジットカードによる外国通貨でのキャッシングです。
どういうわけか、日本のクレジットカード会社とヨーロッパの外銀との間の提携関係だけは完璧に完成しているようでして、ヨーロッパのどの街角にでもあるどの外銀のATMでも、びっくりするほど簡単に現金化できるのであります。
しかしながら、これも所詮は何事につけても大ざっぱなヨーロッパのことでありますから、私の場合、パリのオペラ座すぐ近くの一等地にあるパリ銀行のATMでキャッシングをしたのでありますが、ATMから現金は何とか出てきたものの、明細書はいくら待っても出てこず、ずいぶんと不安な思いをさせられました。
また、キャッシングの場合、今はかつてに比べてかなり利子が低くなってきているようですが、それでも年利13~20%の高利が課されるはずです。

いずれにしましても、今回の海外旅行の最大の教訓は、
「現金は多めに持って行くべし !」ということです。

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MLBの内野は広い!

私は米大リーグ、通称MLB(Major League Baseball)の大ファンです。毎週休日の午前中は、NHKのBSで、イチローのマリナーズや松井のヤンキース、そしてワールドシリーズを制した松坂のレッドソックスの試合を観戦するのが、無上の楽しみです。

ところで、TVで午前中にMLBを見て、その日の夜に日本のプロ野球のナイターを見ていると、同じ野球中継にもかかわらず、画面の印象や雰囲気が全然違うのに驚かされます。
最初は具体的に何が原因なのかよくわからず、漠然とした違和感だったのでありますが、最近やっとその原因らしきものがわかりました。

Smlbdia ダイヤモンドすなわち内野のグラウンドの広さが、MLBの方が日本のプロ野球よりも相当広いように見えるのです。
日米の野球場では、外野のフェンスまでの距離が、MLBの方がかなり広いということはよく知られたことですが、内野の広さについては、すなわち塁間の距離のことになるのですが、こんな基本的なことは当然野球規則で日米全く同じであり、27.431mとはっきり定められているはずなのです。
では、TVの画面でMLBのダイヤモンドの方がかなり広く見えるのはなぜでしょうか?

私はしばらくわからないまま放っておいたのですが、原因らしきものがようやく解明できたと思われますので、以下に謹んでご報告いたします。
まず、実際のダイヤモンドの広さですが、これは当然日米の差はありません。
したがって、あくまでMLBが広く「見える」ということになります。要するに、錯覚の問題です。

第一に、見た目で容易に気がつくのは、おそらくMLBでも日本のプロ野球中継でも、通常センターカメラから投手とバッターの対決を撮っていますね。このカメラ位置での画像をよく比較してみますと、投手と打者そして一番はっきりわかるのは、画面右下に時々写るショートの選手が、いずれも日本のプロ野球中継の画面の選手の方が大きく写っています。
おそらくこの原因は、望遠レンズによる望遠方法の違いによるものと思われます。

第二の理由は、内野の芝生の違いです。
ご承知のように、日本のプロ野球では人工芝のため、芝目でボールが減速せず、却って早い打球となって内野を抜けやすくなっています。
一方、MLBでは、ほとんどのボールパークが天然芝であり、しかも結構芝が長めであります故、たとえA.ロッドが放つ地を這うような強いゴロでも、見た目では相当はっきり減速します。

したがって、MLBでは強いゴロで外野の間を抜けていく当たりというのは、ほとんどありえないのです。また、日本でよく見られる三塁ゴロを三塁手が意図的にワンバウンドにして一塁で刺すと言うこともほとんどありえません。ワンバウンドさせるとボールが減速しすぎるし、なによりイレギュラーのリスクが日本よりはるかに高いからです。中村紀広がメジャーリーグで適応できなかった要因のひとつは、実はここにあると思います。

その結果、バッターが打った同じ内野ゴロが内野手に到達するまでの時間が、MLBは日本より少し長くなり、その分同じ広さのダイヤモンドであるにもかかわらずMLBの方が広く感じるのだと思います。
内野手の送球がその分日本より早くなっているはずなのは当然です。
そして、同じ内野ゴロにもかかわらず、なんでもない内野ゴロがMLBの方が圧倒的に迫力があるのはこのためなんです。

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