お玉が池の千葉道場
今回は江戸時代の剣術道場について考えてみたいと思います。
江戸時代に武士として生まれた子供たちにとって、剣術の修行というものは、果たしてどのようなものであったのでありましょうか? 楽しかったのでしょうか? それとも義務感だけで親からいやいややらされていたのでしょうか?
ちょうど現代の子供たちが、親から強制されていやいや通う学習塾のようなものだったのではないかという気もします。
幕末の剣術三大道場と言えば、神田お玉が池・北辰一刀流・千葉周作の玄武館、麹町・神道無念流・斉藤弥九郎の練兵館、京橋アサリ河岸・鏡心明智流・桃井(もものい)春蔵の士学館が有名です。「位の桃井・力の斉藤・技の千葉」と評されていたそうであります。
ちょうど現代の学習塾で言えば、四谷大塚・日進などと同じ乗りで語られていたのではないでしょうか。
ということで、本日のターゲットは北辰一刀流千葉道場についてです。
実は、北辰一刀流を極めた千葉道場を発展させたのは千葉兄弟でありまして、兄が神田お玉が池の千葉周作、弟が京橋桶町に道場を開いた千葉貞吉であり、こっちの方は「桶町の千葉」とか「小千葉」と言われておりました。
北辰一刀流門下の人々で有名なところをご紹介しますと、新撰組発足の端緒を開いた口八丁手八丁の清河八郎はお玉が池、坂本竜馬は桶町、深川佐賀町に自分で北辰一刀流の道場を開いていた、後年京都油小路で新撰組に暗殺された伊東甲子太郎は距離的な近さから考えて桶町に通っていたはずです(深川佐賀町から徒歩20分)。
そして誰よりも先に挙げなくてはならないお玉が池の千葉道場の最大のスターは、あの「赤胴鈴之助」なのです。
ということで、今回の散歩は「お玉が池の千葉周作道場跡」を歩いてみました。
現在の場所は、JR秋葉原または都営新宿線岩本町下車、住所は岩本町2丁目、「右文尚武」という写真のような石碑だけが見つかりました。
お玉が池は当然影も形もありませんでしたが、お玉が池跡に立つ玉池稲荷があります。説明板によりますと「最初、桜が池と呼ばれていましたが、ほとりにあった茶店のお玉と言う女性が身を投げたとの古事からお玉が池と呼ばれるようになった。江戸のはじめは、不忍池よりも大きかったと言われておりますが、徐々に埋め立てられ姿を消したと言う」とあります。
身投げできたんだから、相当広くて深い池だったんでしょうね。
往時を偲ぶよすがはほとんどないのでありますが、玄武館跡の石碑を前に、清河八郎を思い、なつかしの赤胴鈴之助を思う時、感慨無量でありました。横車押之進が鈴之助を待ち伏せした路地に私が立っているかも知れなかったからであります。
一方、京橋桶町の千葉道場には石碑らしきものは何も見つかりません。
場所の見当としては、東京駅八重洲口八重洲ブックセンターの裏あたりになるはずです。
こちらには伊東甲子太郎や坂本竜馬が通っていたはずであり、二人は時代がぶつかりますので、相当の確率で出会っているはずです。
桶町の千葉貞吉の長女は「さな子」といい、司馬遼太郎の「竜馬が行く」にも出てきますが、幼い頃から貞吉に剣を仕込まれ、免許皆伝の腕があると言われ、竜馬に勝ったことがあるとも伝えられている気丈で美しい女性であったようです。竜馬とは結婚を約束されていたようでありますが、ご存知のように、竜馬は京都でおりょうさんと結婚してしまいます(しかし、よく考えると、竜馬は気丈な女性ばかりを好きなんですねぇ)。
武内つなよし「赤胴鈴之助」によれば、お玉が池の千葉周作には吉永小百合演じるところの娘さゆりがいたようですので、千葉兄弟の両家ともに気丈で美人の娘がいたことになります。
千葉さな子の方は、竜馬暗殺後も独身を通し、晩年は華族学校(現学習院)の舎監を務めていたようです。
明治29年、58歳で亡くなっていますが、甲府市のさな子の墓石の裏には「坂本竜馬室」と刻まれているそうです。
こんなにも一途にほれてくれたさな子さんを裏切って、おりょうさんに走ってしまった竜馬の罪は万死に値すると思いますし、この一事だけを考えれば竜馬が暗殺されたのもやむをえなかったのかもしれません。
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コメント
ごぶさたしております。
という割には、本編とは関係ないのですが、
現代の学習塾で四谷大塚・日進を例示するのはいかがなものでしょうか。
私も通った日進ははるか昔に閉口し、「合不合」で一世を風靡した四谷大塚も昔日の面影はありません。
いまや日能研の一人勝ち状態ではないでしょうか。
ちなみに私は島本時習塾にも通っておりました。
ある意味、下町少年の王道を行ってましたね(笑)。
投稿: 下町少年 | 2006.07.22 13:18
私は学習塾については、門外漢でしてトンチンカンな事を書いたかもしれません。おわびします。
私が生涯一度だけ通った学習塾があります。小学校5年から6年にかけて一年チョット通った四谷大塚進学教室の日曜テストです。当時の四谷大塚はJR大塚駅北口の現在の三井住友銀行大塚支店があるところだったはずです。私にとっては、中学受験のための準備という意識は皆無でありまして、仲間が行くから行くと言うものでした。したがって、仲間が野球をするのであれば、野球をしていたはずです。
そしてはなはだ珍妙なことなのですが、四谷大塚に通っていながら結果的に私は中学受験はせずに、家の近くの深川二中に進学したわけです。
投稿: 壮大な零 | 2006.07.22 22:41
いえいえ、お詫びされても困ります。
閉校が閉口になっちゃってますし(笑)。
私は小学校ではいじめられっ子だったので、
成績さえ良ければいい塾の方が楽しかったです。
さらに泳げなかったので、夏休みはプールに行かなくてすむように
可能な限り夏期講習に行きたいと親に頼んだものでした。
私の年代でもかなりの変わり者でした。
投稿: 下町少年 | 2006.07.23 13:36
浅葱色の風 管理人の 日向羅雪です。
気がつくの遅れてすみません。ご訪問ありがとうございます。
記事をいじってたら気がつきました・・すみません・・また、遊びにこさせてもらいます。
これから 本格的な幕末情報サイトめざしたくおもっているのでよろしく お願いします。
投稿: 日向 羅雪 | 2006.07.23 21:56
坂本竜馬が気丈な女性ばかりを好いたのは、やはり気丈な姉さんの存在が影響しているのでしょうかね。
ところで、千葉周作に弟が居たんですか。京橋桶町という所に道場があり、竜馬はそちらの道場に通っていたんですか。いや~勉強になりました。
桶町というからには桶屋が多かったんですかね。
投稿: 男たちの飛鳥 | 2006.07.27 12:47
いやいや、これは気がつきませんでしたが、「男たちの飛鳥」さんがおっしゃるとおり、竜馬の女性に対する好みは、間違いなく乙女姉さんの影響でしょうね。
なお、桶町について調べたところ、「現在の中央区京橋界隈。銀座に接するこの都心街区は江戸時代には、職人の町として知られ、桶町の他にも今は消えた南鍛冶町、南鞘町、大鋸町、具足町などが並んでいた」そうであります。したがって、お説のとおり、桶屋職人の町であったはずです。
投稿: 壮大な零 | 2006.07.28 22:43