2013.03.25

渋谷物語3 「天井桟敷と状況劇場」乱闘事件

むかしむかし、まだ私が学生だった頃、若者という若者はみ~んな、誰もが目を吊り上げて、何かに向かって怒っている時代が確かにありました。かくいう私のような温厚な人ですら、怒っていたのです。
若者みんなが怒っているとはどういう状況かと申しますと、キャンパスのそこかしこはもとよりとして、街のそこかしこなどで、みんながみんな口から泡を飛ばし目を血走らせて、議論しあっておりました。

そのうちに、議論などと言う生易しいことでは済まなくなり、あるいは胸倉をつかみあい、あるいは殴り合い、俗にいう「乱闘事件」などという神聖な呼称をつけられて、伝説化される場合もありました。1969年前後だったと思います。
以下のお話は、その頃のいわゆるひとつの典型的な集団乱闘事件です。
当時、日本を席巻していたアングラ劇団。天井桟敷の寺山修司、状況劇場の唐十郎、早稲田小劇場の鈴木忠志、黒テントの佐藤信。以上4人は、アングラ四天王と呼ばれ、小劇場ブームを巻き起こしておりました。
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四天王の中でも、最も過激とおぼしきが状況劇場の唐十郎。状況劇場を有名にしたのは「新宿西口公園事件」です。それは今の都庁の西側に広がる公園で起きた事件です。東京都の中止命令を無視して、新宿西口公園にゲリラ的に赤テントを建て、「腰巻お仙・振袖火事の巻」公演を決行。200名の機動隊に包囲されながら、最後まで上演しきったのが状況劇場です。

上の写真は、この新宿の赤テントとは別に、状況劇場が常設でテントを張っていた渋谷金王八幡宮の現在の様子です。相変わらず「リュックをしょったシニア」が多いですね。
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一方、上の写真は、当時寺山修司の天井桟敷のあった渋谷駅南側の写真です。状況劇場の常設テントのある渋谷金王八幡宮とは、歩いて5分くらいの距離でしかありませんでした。

仕掛けたのは、唐十郎。近くで上演された天井桟敷の旗揚げ公演にパチンコ屋の開店祝いの花輪を送りました。
これに対する意趣返しとして、1969年12月5日天井桟敷側は、渋谷金王八幡宮で行われる状況劇場のテント興行の初日に、葬式用の花輪を祝儀としておくりました。
一週間後の12月12日、唐は劇団員を引き連れて天井桟敷を襲撃、大立ち回りを演じた末、唐と寺山を含んで双方の劇団員9人が暴力行為の現行犯で逮捕されるという大事件となりました。
なお、私はこの喧嘩が本気だったとは思っていません。なぜなら、唐さんは今でも寺山修司を語るとき、最大級の敬語を使うからです。
それから、もうひとつ。
もはやこの種の乱闘事件は、二度と起きないと思います。
なぜなら、現代の若者で、本気で何かに怒っていたり、語るべき演劇の核心を命懸けで論争しそうなアーティストが見当たらないからです。

2009.11.05

いなくなったブスちゃんとブ男ちゃん

明確にいつからとは定かに判別できないものの、言われてみて改めて周囲を冷静に観察すると、いつの間にか静かで着実な変化が起きていたことに気づいてびっくりする、ということが時々あります。

ちょっと例を挙げてみましょう。
たとえば、録音テープもビデオテープも気がついたら、もうほとんど売っていません。この調子で行くと、CDも遠からず姿を消すのではないでしょうか?
日本人の場合、こうした庶民生活での便利さの受容は世界に冠たるスピードで、よく言われるのは、明治時代に日本人の和時計から洋時計、和暦から西洋暦への変化は世界一のスピードだったようで、一瞬にして洋時計そして西洋暦への変化が行われたようです。

こうした事実と関係があるか否かは、微妙なのですが、私が最近改めて「ああっ! そうだ!!」と思わず声を出すほど驚いたある変化があります。
それは、いつの間にかブスちゃんとブ男チャンが、私の周辺から忽然とその姿をほとんど消してしまったということなんです。

かくいう小生も典型的なブ男ちゃんなのですが、小生の場合、わが半生において、タダの一度もこの事実に対して、引け目とか劣等感とか感じたことはありません。むしろ、精神的にはイケメン君よりも安定した生活を送ってきたと思います。
その理由をツラツラ考えてみますと、私の青少年期におきましては、ブスちゃんとブ男チャンこそが圧倒的多数派だったと思います。概ね6割sign01と言ってもいいくらいの割合だったと思います。したがって、多数派に属していることの安定感があったわけです。
しかるに、いつの頃からなのか判然としませんが、最近の若者は誰も彼ももれなく女は美人、男はイケメンなのです。全くインクレディブルです。
最も典型的なケースとして、最近の新入社員を見てみれば、このことは一目瞭然です。

理由を考えてみました。
●栄養がよくなったので、みんな骨格が充分に発達し顔もよくなった。
●教育が普及して、みんな教養レベルが高くなり、それが顔を上品にしている。(じゃぁ、小生の顔など相当よくなっているはずだけれども・・・)
●各人の個性を生かした化粧の技術が、飛躍的に進歩している。
●ファッションセンスが昔をはるかに凌駕しており、みんなセンスの高い似合うものを着ている。(私の場合、着るものにこだわるなど、男としてあるまじきことという教育を受けてきた。)

これくらいしか考えつかないのですが・・・

それにしても不思議なことです。
っていうか、小生としては、とっても落ち着かないことになってしまっています。

2009.08.17

月光仮面その他

昨日(09.8.16)、NHKFMで「なつかしのヒーロー特集」をやっておりまして、その中でも川内康範原作の「月光仮面」についての分析が、非常に興味深かったので、引用します。

「月光仮面」とはTV映画バージョンから実写映画バージョン、そしてアニメ版に至るまで、各種制作されておりますが、我々団塊の世代が語る「月光仮面」と申しますれば、やはり昭和33年から数年間にわたって、大人気を博し、ちょうどテレビの普及期に放映されたTV映画バージョンでしかありえません。その放映がテレビの普及期とピッタリ一致したため、教室ではテレビの買えない子供を仲間はずれにしたまま、前日の月光仮面談義が教室内で際限なく繰り返されました。(当時「月光仮面」は、月曜から金曜まで帯で15分番組として放送されていたと思います。したがって、「前日の」なのです。)今考えると、子供は残酷なものだと考えさせられます。
主演は大瀬康一、制作は宣弘社。

NHKFMで興味深かったのは2点。
まず第一は、原作の川内広範は、「憎むな、殺すな、赦(ゆる)しましょう」という明確な勧善懲悪の理念を持っていたこと。ここで注目すべきことは、けっして「許しましょう」ではありえず、「赦(ゆる)しましょう」であること。すなわち、論理的な許しではなく、情念としての赦しであること、を川内は後の小説版でもはっきりと主張しているというものです。
  うぬぬsign02深いsign03
第二は、毎日15分づつ放映される「月光仮面」の冒頭テロップには、これまた毎日まず最初に「
月光仮面:?、祝十郎:大瀬康一」とでてきます。
私たちは当然「月光仮面は祝十郎でしかありえず、したがって大瀬康一でしかありえない」と思いこんでいたのですが、作者としては「みんなが月光仮面なのだ」という哲学的意図で「
月光仮面:?」としたそうです。
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この番組は、さらにサプライズを提供してくれました。
それはゲストとしてインタビューに応じた川内広範の息子さんの証言。
川内広範は、大変な女性好きで、そのために最初の奥さんとは離婚している。証言した息子さんは最初の奥様のご子息で、現在弁護士です。
もうひとつ、川内広範を理解するためには、彼が並はずれた子煩悩であったことと、暖かい家庭に心の底からあこがれていたことを知らなければならない。
ご子息の話では、川内広範の溺愛振りはすさまじかったそうで、しかしながら離婚した以上、思うように息子に会えなかったことが川内広範にとって大変な悲しみとなっていたらしい。
したがって、我が息子に自分の存在を主張するために、息子が最も喜びそうな子供向けのテレビ番組に自分の考えを仮託して書いたということなのです。それが「月光仮面」だったわけです。川内広範は自分の姿を息子に見せるために、映画バージョンの「月光仮面」では、タイトルバックの自分の名前の場面でわざわざ顔を出すことまでしているそうです。
もうひとつ、川内のこうした性格からひとつの推測が可能となります。
すなわち、もはやあまりにも有名になった森進一による川内広範作詞の「おふくろさん」改作事件の真相についてです。なぜ川内広範はあんなにもかたくなに森進一を許さなかったのでしょうか ?

前にも触れましたが、川内広範は家族とりわけ母親への愛情は強烈なものがあり、彼の「おふくろさん」という作品は彼にとって一字一句の改作も頑として許され得ない完璧なものだったのだと思われます。
どうして肝心のこういう場面で「
赦(ゆる)しましょう」とはならないのだsign01と怒っているあなたsign03 人間とはかくも矛盾に満ちた存在なのですよ・・・・

もうひとつ、これは余談。
大瀬康一:主演、宣弘社:制作 と言えば、これも昭和34年頃の作品で「豹の眼」を思い出します。これは「ジャガーのめ」と読みます。私は「豹の眼」は「月光仮面」のひとつのシリーズだと思いこんでおりましたが、今回調べてみて独立の作品だと言うことが判明しました。この作品の中で秘密結社「青竜党」の娘、美貌のヒロイン錦華を近藤圭子が演じております。
近藤圭子は当時大人気の童謡歌手(今では考えられないことですが、当時は「童謡歌手」という呼称が人気を呼ぶひとつのステイタスだったようです)。この後、妻ある男性との凄惨な心中事件をおこし、その後、本郷赤門のまん前で「ココス」という喫茶店を開きました。当時、首に痛々しい傷跡があるとうわさされ、彼女はいつもスカーフを巻いておりました。
先日、赤門前をうろついてみましたが、このお店すっかり影も形もなくなってしまっていましたネ。


2008.11.13

割り箸の「鉄腕アトム」

何度かこのブログでも書きましたように、我が家にテレビが来たのは私が小学校入学以前の昭和二十八年です。
したがって、私は労せずしてテレビの番組発達史の生き証人ということになります。
そこで、今回のテーマは「国産アニメ第一号」です。

今は「アニメ大国日本」の名前をほしいままにするほど、世界に冠たる我が国のテレビアニメの隆盛ぶりで、世界中に輸出されているようです。
しかし、テレビの草創期においては、外国アニメは、ご存じディズニーアニメを筆頭に相次いで輸入され大評判であったのですが、国産アニメの方は影も形も存在しないというちょうど今と逆さまの状況であったのです。

Photo 国産アニメの登場が切望されていたそんな時期に、テレビに初めて登場したのは「鉄腕アトム」です。あれはおそらく昭和三十一~三十二年頃だったと思います。
ということで、私が今回お話ししたいのは、当時の「アニメ」「鉄腕アトム」がどのような様子で放映されていたのかについて、歴史の生き証人として証言してみたいのて゛す。
うっかり「国産アニメ第一号」と言ってしまいましたが、「アニメ」が動画という意味でありますれば、それは全く別物だったのです。

今ではちょっと考えられない番組ですので、みなさんには少なからぬ想像力を呼び起こしていただかなければなりません。
まず、登場人物はアトムやお茶の水博士をはじめ、それぞれひとりづつ別々に表用と裏用の二枚づつ紙に描かれています。そしてその二枚の紙は割り箸のようなものをはさんで、表と裏として張り合わされています。
そして、その割り箸のごとき登場人物は、割り箸の一番下の部分で、黒子の手に支えられ、あるいは左右に動き回り、あるいは表裏をひっくり返されたりしながら番組が進行していくのです。表が笑顔であれば裏は泣き顔であったり、表が右を向いていれば裏は左を向いていたりしていました。
もちろん、割り箸の動きにあわせて、せりふが語られます。

おわかりいただけましたでしょうか・・・・
誤解を恐れず簡単に表現すれば、
要するに「割り箸に貼り付けられ平面的に描かれたキャラクターによる一種の人形劇」といったようなものなんです。

私は当時小学校一年生でいわゆる典型的な「年端もいかない子供」であったわけなんですが、その子供である私が思わず「これは何か変 ! 子供だましだ !」と慨嘆せずにはおられなかったほどのくだらなさでした。
私の記憶では、この「鉄腕アトム」はほんの数回でうち切られてしまったと思います。
アニメ大国日本の今振り返ってみますと、隔世の感です。

どなたかおぼえていらっしゃらないでしょうか・・・・
おぼえていらっしゃったら、コメント願います。

2008.10.24

昭和五年の浅草六区

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まず上の写真をご覧ください。
昭和五年の浅草六区の状況です。
左が「電気館」と思われますので、花やしき方向から雷門通り方向を見ていることになります。
非常に興味深い写真です。

現在両国の江戸東京博物館では、「浅草今昔展」を好評開催中です。
ご覧の写真はこの「浅草今昔展」の一環として、常設展示場に現在展示されています。

写真が撮られた時間ですが、大変な混雑ですので、おそらく日曜日の午後と思われます。
昭和五年ということは、既に大恐慌は来ています。翌年は満州事変のはずです。そうした時代背景のわりには、浅草は思いっきりにぎわっていますね。人々の様子も、時代の暗さを感じさせないほどに活き活きしていますね。

ところで、私の言いたいことは実はそうした通り一遍のことではもちろんありません。
もう一度、みなさんこの写真をよ~く見つめてください。
少なくとも私は不思議だと感じたことがふたつあります。それを言いたいのです。

Sdsc00371 まず、第一は、女性と子供が異常に少ないのです。
これが、昭和三十年代の浅草だと、我が家がそうであったように、親子連れだらけであるはずです。
そして、現在ただ今の浅草の六区に行ってみてください。おそらく七割は女性、それも複数のおばさん達がやったら多いんです。
一方、昭和五年はご覧のように男だらけだったんですねぇ。興味深いです。
おそらく、当時の男達には、男女で盛り場に遊ぶという風習があまりなかったのでしょう。まして、子供を連れた家庭サービスなんぞ、常識にない行為だったんでしょうね。
すっごくおもしろいことだと思います。

さて、第二の不思議な事実。
その男達の一人一人を見てみると・・・・
み~んな帽子をかぶっているんです
野球帽ではありません ! 中折れ帽というのでしょうか、鳥打ち帽というのでしょうか、立派な紳士用の帽子です。
当時の男性諸君は、帽子がアイデンティティであり、おしゃれのポイントであったようです。
いやはや、興味深いです。
二枚目の写真の左下は今もこのとおりの姿である「花やしき」、下の真ん中の掘っ建て小屋風の建物は、おそらく現在の初音小路に名残を残す煮込み屋さんたちではないでしょうか・・・・

2008.10.14

天気予報を変えた男

NHK関係が続いて大変恐縮ですが、今回もNHK関連の記事です。

今から四十年前、私が大学生の時に、今考えれば物好きなことですが私は「NHKのモニター」なるものに応募し、採用されて約一年間のモニター経験があります。
「NHKのモニター」とはどのような仕事かと申しますと、正直言って大してむずかしいことではありません。
月に一回、NHKから封書が郵送されてきまして、一ヶ月の間にモニターが見たり聞いたりすることを義務づけられるテレビ・ラジオ番組が、ミッションとして指定されます。その指定された番組を、モニターは何としてでも視聴し、指定された番組毎に、400字詰め原稿用紙1~2枚に感想を書いて、送り返すのです。
ノルマは、はっきり覚えていませんが、確か一週間に一番組程度であり、それほど大した負担にはならなかったと思います。その代わり、ペイもその当時で月数千円で、大して魅力のあるものではなかったはずです。

負担は軽かったとは言いましても、困難な事態ももちろん起こりました。
たとえば、私の場合、どうしても興味のわかない番組をミッションとして指定された場合の対処の仕方です。例を挙げれば、長唄とか浪曲のラジオ番組の感想を求められた場合です。もっとひどいときは、ビデオやテレコがない時代ですから、指定された番組を聞き逃したケースもありました。
そうしたケースでは、無理を承知で感想文を創作していましたが、意外にそうした方が上手に書けるから不思議です。

一方、我ながら目から鱗が落ちるような、すっばらしい改善提案もいくつかしました。
そうした中で、今でもテレビを見るたびに、「これがおれの提案だ !!」と人知れず誇らしく思い出し笑いをしているのが、NHKのテレビの天気予報における私の提案なんです。

NHKの天気予報と言えば、今や半井小絵チャンをはじめ、かわいいお天気お姉さんたちが登場して、はなやかでわかりやすく、そして見やすくなっておりますが、今を去る四十年前、それはそれは地味な天気予報(おまけに今ほど当たらなかったんですよネ)だったんです。
当時のNHKの制作責任者の方々が、私の提案を受けてよくぞ即座に変更し、今に至るまで改善し続けているのを見るにつけ、私は思わず涙ぐんでしまう始末です。

さて、もったいぶらずに申し上げましょう。
おまえは一体何を四十年前に提案したのか ? と言われれば、天気予報における地域別の警報・注意報の表示方法の変更を行ったのです。
これは具体的にテロップを見ながら説明しないとわかりずらいのですが、多少の無理は承知で説明します。
私が改善提案をするまでのNHKの天気予報における地域別の警報・注意報は、
「大雨注意報: A区 B区 C市」  「強風注意報: A区 C市 E市」
といった調子で表示されるため、たとえばA区の住民は台風の時など、ずらっと並んで表示されている警報・注意報の全てに瞬時にして目を走らせ、「A区関連の情報」を自分で抽出して確認しなければならなかったのです。
手間はかかるし、見にくいことこの上なかったのです。

こうした不合理な番組運営に対して、当時学生であった私が、強く改善を指摘したのです。かすかな記憶では、NHKに対して「常識を疑う」とか「視聴者の立場に立っていない証拠だ」などと、かなり強い言葉を使ったような気がします。
具体的には、
「A区: 大雨注意報・強風警報」
というように、
地域ごとにまとめて警報・注意報を表示することを主張したのです。
容易におわかりのように、さすればA区の住民は一番左欄に「A区」とある欄だけを見ればいいわけで、あちらこちらキョロキョロする必要はまったくなくなるのです。

私のこの提案は、びっくりするほど速やかに採用され、おそらく1~2ヶ月後には、実際の天気予報の改善が行われました。

なお、民間放送の天気予報も、若干タイミングが遅れましたが、同様の表示方法の修正を当時行っています。
したがって・・・  そうです・・・・
私は「日本の天気予報を変えた男」ということになります。

2008.05.12

追い抜かされること

還暦を前にした今日この頃、職場との行き帰りに街を歩きながら、卒然と気がついたことがひとつあります。
後ろを歩いている若い人に(それも若い女性にすら)たびたび追い抜かれるということなんです。
くやしくなって抜き返そうと一度は思うのですが、どうしても抜けません。おもわず、いつ頃からこんな情けない状況になってしまったのかと、力無く考え込んでしまいます。
そして、ヨタヨタ歩いている方々を次から次へと颯爽と追い抜いていた私の若い頃を思い出してみます。私には、ついこの間のことのように思えるのですが・・・・
その思い出の中でも、とりわけひとつの鮮烈なエピソードをまざまざと思い出すのです。

あれはまだ私が三十歳を少し過ぎたばかりの頃のある朝のラッシュアワーでのことでした。
いつものように、大手町で地下鉄を降りた私は、通勤者の雑踏で大混雑の長い地下道を、今と違って気持ちよさそうに早足で職場に急いでおりました。それこそ、前を歩く通勤者を次から次へと追い抜いておりました。

その時、私は突然かかとを踏まれたのです。
私のかかとを踏んだ男は、何のわびも挨拶もせずに、無言で私を追い抜いていったのであります。
その男のあまりに礼を失した態度に激しい怒りを感じた私は、件の男を見失うまいとしっかりと見据えながら、雑踏の中を追いかけました。

みなさん、その後私はどうしたと思いますか ?
なにしろ、血気盛んな今から三十年くらい前の私です。今の私には、絶対に考えられない行動に出たのです。

その男を抜き返したのです !!
おまけに、抜き返しざまに、その男のかかとを踏みつけ返したのです。

男は一瞬何が起こったかわからなかったようですが、一拍おいて我に返り、「なんだ ! おまえ!」と大声を出しておりましたが、その時には私はもう既にその男のかなり前を歩いておりました。

この話の最も面白い部分は、実はこの後なんです。
抜きつ抜かれつ、相前後して大手町の長い地下道を早足で歩くふたりの男たちは、なんと ! 最後まで、すなわち私の職場のビルの入口まで、一緒だったのです。
要するに、同じ職場に勤務する者同士だったんです。

しかし、バカだったよねぇ・・・・


2008.04.01

あるクラシック番組の記憶

最近のテレビ番組は、おっそろしく下劣なものばかりで、このような番組を見ていては日本人の脳が腐り始めるのではないかと心配になるほどです。
ということで、今回は例によって「昔の思い出シリーズ」ということで、昔よく聴いた記憶のある印象的なクラシックの、あるラジオ番組についての話です。

「昔」とは、例によって昭和二十年代後半・・・私の小学校入学前の話です。当時のラジオは、現在と比較してかなり高い頻度でクラシックを流していたような気がします。
とりわけ、日曜の午前中のNHKラジオ第一は、ほとんどクラシック番組一色だったはずです。
したがって、私は今でも日曜の午前中はほとんどパブロフの犬状態で、クラシックをどうしても聴きたくなる禁断症状が出るほどです。
また、昭和三十年代後半に発足した現在の「FM東京」の前身の「FM東海」では、夜の通信制高校講義の「望星高校」以外は、ほとんどクラシックしか流していなかったはずですから、現在のFM東京とは隔世の感があります。

さて、話を元に戻して、昭和二十年代の毎週日曜日の午前十時頃から始まったはずのNHKラジオ第一の、あるクラシック番組についての私の記憶です。
題名は、残念ながら忘れました。

この番組は、いわゆる視聴者参加番組で、毎回出演者が3~4人出てまいります。そのほかに、司会者とこれも三人程度の審査員がいたはずです。
さて、出演者に何を競わせるかと申しますと、シンプルなんです。まず最初に出演者にクラシックの名曲を五分程度聴かせます。しかる後、それぞれの出演者に司会者が「今流れた曲を聴いて、あなたはどういうイメージが頭に浮かびましたか? 話してください。」と言うのです。
出演者は順番に頭に浮かんだイメージを話します。
たとえば「森の中を一人で歩いています。急に美しい青い鳥が私の目の前を飛び立ちます・・・・」などといった案配です。
最後に審査員たちが、それらのイメージの中で、最も表現力が巧みで、想像力の豊かなものを勝ちとして選ぶのです。

どうですか !!!
なんと志の高い、気高い番組でありましょうか !!
現在席巻している脳を腐らせる番組の洪水の中では、決して存在し得ない素朴で清らかな番組だとお思いになりませんでしょうか !!

しかし、この番組はなぜ消えてしまったんでしょうかねぇ・・・
残念ですねぇ・・・・

このラジオ番組のより詳細なご記憶のある方は、コメントいただければ幸いです。

2007.09.19

変わらない顔

今回は私の顔についてなんですが、大変恥ずかしいことに私の顔は中学生以来あまり変わっていないようなんです。
もちろん自分でははっきりとわからないのですが、古い友人たちは皆そのように証言してくれます。早い話が童顔ということなんです。
童顔に生まれついた場合の損得でありますが、おそらく損失が大きいと思います。
すなわち、悪事を働いたら、露見する確率が他人より高いと言うことです。それに貫禄もあまりありません。
つい先日も、私の顔が中学校以来ほとんど変わっていないということを思い知らされる事件がありました。

ところは都内某所の繁華街、時間は宵の口。
私はタクシーを探していました。お腹が空いていることに加えて、折悪しく雨も降り出して、私は帰りのタクシーを探しながら焦り始めていました。
歩きながらしばらく探していると、客待ちしている一台のタクシーをようやく見つけました。チラッと目が合った運転手の顔が、妙に青黒くふやけていて、ひどく人相が悪いのが気になりましたが、雨足がだんだん強くなり始めたので、委細かまわずドアを叩きました。
運転手はいかにも「いやいやながら」という感じで、ゆっくりと後ろのドアーをあけました。
私は即座に「木場までね ! 頼むよ !」と声をかけながら、ようやく後ろの座席に座りました・・・・

しかし、運転手は私が目的地を告げたにもかかわらず、どうしたわけか返事もしないし、そのままフリーズしてしまったかのように車を出す様子が全然見えないのです。
私はもう一度、大きな声で目的地を告げると、いかにも仕方なさそうに運転手は無言でようやく車を動かしました。
そして運転しながらすぐに、彼はブツブツと私には聞き取れない小さな声で何事かを何度もつぶやきはじめたのです。彼の人並みはずれた顔の悪相と相まって、その不気味な独り言は、私を怖がらせるには充分なものがありました。
私は一瞬、不運にもたまたま異常者が運転するタクシーに乗り込んでしまったのだと、確信してしまいました。

「何とかせねば !」と焦る私は、怖さもあってかえって詰問するかのように、「なに ! なんて言ってるんだい !」と大声を出してしまいました。
すると件の彼は、今度は私がやっと聞き取れるギリギリの小さな声で、「同級生・・・・」と確かにそう言ったように聞こえました。私は意外な言葉に聞き間違いだとは思ったものの、「はっ ? なに ? 同級生 ?」と問い返しました。

今度は彼は聞き間違えようのないほどはっきりと、「中学校の同級生の○○だよ !」と自己紹介した後、「何々君だよね」と私の名前を正確に言い当てたのです。
実に43年振りの偶然の再会でありました。

要するに、私の顔ははるか43年振りに偶然街で出くわしたとしても、クラスメートにとっては充分判別可能なほどに変わっていないと言うことだったのです。
一方、運転手君の方はと言いますと、とてもとても判別不可能なほど顔は変わっておりました。「おぉ、おまえ変わったよなぁ !」と私。「うん、ちょっと大きな病気をしたものだから・・・」と彼。

しばし、じ~んとした夏の夜でした。

2007.02.25

喜多條忠という作詞家

喜多條忠という作詞家をご存知でしょうか?
「きたじょうまこと」と読みます。
昭和22年生まれですから、ほぼ私と同じ団塊世代。私の20歳代の時代を代表する作詞家で、当時の若者の気持ちを見事に代弁する優れた作品を連発しました。
例を挙げれば、かぐや姫の「神田川」を白眉として、キャンディーズ「やさしい悪魔」、柏原よしえ「ハロー・グッバイ」、梓みちよ「メランコリー」、そして由紀さおり「両国橋」等々。

彼の作品の特徴は、語彙がきわだって豊富で非常に質が高いということです。詩を聞けば「喜多條にちがいない」と大体見当がついてしまうほどです。ポップスの作詞家では、なかにし礼とか阿久悠とか名のあるヒットメーカーがいますが、彼らと喜多條を冷厳に峻別するものはその質の高さです。もうひとつ喜多條を特徴づけるものがあります。ヒット作を見れば、おわかりのように大変寡作な作詞家なんです。

それでなくても寡作な喜多條でしたが、ある時点を境にほとんど作品を発表しなくなります。それは昭和50年の伝説の「つま恋コンサート」からしばらく経った頃だったようです。
喜多條の熱心なファンだった私は、なぜ書かないのかと不思議ではありましたが、もともと寡作な作詞家なので「創作意欲の問題かな」となんとか自分で納得していました。そうは言っても、頭の隅では不自然なものを感じ、ひっかかったような状態でいました。その時の事情が2月4日の朝日新聞のコラムで判明しましたので、抜粋して以下に引用します。

つま恋から5年ほどたったころ、妻が家を出て行った。
長女が小学校の低学年、長男は幼稚園に通っていた。
妻の荷物が消えた部屋で、川の字に寝た。真ん中で二人と手をつないで。一本一本細い指をなぞると、小さな骨の感触が伝わってきた。
この手がどんどん大きくなるんだな。
親の都合で重い荷物を背負わせた。罪の意識を感じつつ、強く生きて欲しいと願わずにいられなかった。
5時起きの生活が始まった。「おべんとう365日」という本を頼りに、子供たちの弁当を作った。
仕事の依頼は断った。子供に寄り添うと決めていたから。
そんな父子暮らしは、再婚するまで一年半続いた。

長男の優さん(31歳)は、つま恋の年に生まれた。
20代で世に出た父のように自分も何か成し遂げたい。今は独力でたちあげたアパレル会社の経営に全力を注ぐ。
仕事に打ち込み始めてから、疑問に思ったことがある。
なぜ、全盛期に仕事を捨て去れたのか。
父の答えに驚いた。
「お前たちの弁当を作る方を選んだんだ」
自分にはできそうもない。

いやぁ~、いい話ですねぇ。
喜多條忠、まだまだ59歳。どうやらこれからが期待の注目の作詞家だと思いますよ。