台湾の「チェッ、チェッ、チェッ」

私にとって初めての台湾(台北)に行って来ました。期間は二泊三日です。期間は短かったものの、大変充実した海外旅行でした。すなわち、ツアーであるにもかかわらず、幸運な偶然からガイド(74歳の爺さん)も車も二日間独占できたからです。
おかげで、丸二日間、74歳の台湾本省人の爺さんを質問攻めにできたのです。以下に、台湾で気のついたこと興味深かったことを順不同で書いていきます。

●まず、第一印象は車がやけに多いということ。とりわけバイクが異常に多い。その分だけ、自転車をほとんどみかけません。バイクは信号待ちごとに車の前に20台程度が並ぶなど、ちょっと日本では見ない信号待ちの情景。
ガイドの説明では、台北では電車通勤はほとんど皆無、バイクか車で通勤するそうです。したがって、一日中交通渋滞、とりわけ出退勤時は渋滞がひどい。

●人口密度が高いだけに、高層ビルの多さは、東京の周辺区市なみ。ビルを一望してすぐ気がつくことは、外壁の色がほとんど紫、えんじ、茶色系で統一されていること、したがってエキゾチックな独特の雰囲気がある。しかし、ビルが古いためなのか、それとも度を越した交通渋滞のためなのか、かなりのビルが煤をかぶったように黒ずんでいる。

Sdsc00210 ●漢字社会なので、大概の看板や注意書きは何が書いてあるか見当がつきます。また、ほとんどの観光スポットでは日本語が何とか通じます。というよりも、日本語と英語をチャンポンにしゃべっていれば、なんとか通じます。夜店の小さな屋台ですら、通じます。国民感情もきわめて親日的です。したがって、日本人観光客には便利な観光地といえます。

●山が多い地形のため天候が変わりやすいためなのか、TVでの天気予報が非常に大雑把です。日本のように「高気圧がどうした」とか「花粉がどうだ」とか詳しい解説は全くなし。まして、時間ごとの予報などしません。私のいた三日間のTVの予報は、地域別には表示するものの「今日は雨が降るか否か」だけに特化した情報提供に見えました。

Sdsc00203 ●道教の民間信仰が極めて盛んです。それも多数の若い人たちが、熱心に祈っている姿が印象的でした。病気平癒のためなのか、受験のためなのか、はたまた恋の成就のためなのか、みなさん長くて太いお線香を持ちながら一心不乱に祈っていました。たとえば、関渡馬祖廟では、ご覧のように日本の仏像とは全然違う、ど派手でキンキラキンの神様たちの像が洞窟の中にたくさんいらっしゃるのです。それらの像にお祈りをし終えて洞窟を抜け出た突き当たりの場所には、まるで遊園地のようなエンタテインメント施設があって、人形の豚Sdsc00201 たちが音楽に合わせて踊りながら歌っていたのです。なんとも明るいお宮さまで驚かされます。

しかし、私がこの旅行で本当に腰を抜かさんばかりにびっくり仰天させられたのは、この時、馬祖廟の一番奥で、この人形の豚たちが踊りながら歌っていた曲なんです。
なんと昭和39年の橋幸夫のヒット曲、吉田正作曲、「チェッ、チェッ、チェッ」だったのです。四十年以上も前のこの橋幸夫の「チェッ、チェッ、チェッ」が、中国語の歌詞で女性グループの曲として編曲されて台湾の道教施設の奥深い場所で歌われていたのであります。こんなサプライズがありうるものでしょうか ! 私はすっかりうれしくなってしまいました。
この「チェッチェッチェッ」という曲は当時吉田正と橋幸夫のコンビによるリズム歌謡三部作として名曲「恋をするなら」や「スイム・スイム・スイム」と同じ頃にリリースされたホットロッドに分類される覚えやすい曲です。吉田正は当時この種類の新しいリズムをいとも簡単に歌謡曲と融合して作曲してしまう稀有な能力を持った天才でありました。
やっぱり吉田正は偉大です。永遠のアジアの吉田正だったのです。

今回はかなり長くなってきましたので、他に食べ物の話などは次回に稿を改めて書きます。

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新選組と竜馬の時間距離(京都新選組旅行6)

今回は、壬生の新選組屯所と坂本竜馬の隠れ住んでいた酢屋(三条河原町)周辺の時間距離について、分析してみたいと思います。

まず、新選組の屯所のあった八木邸と旧前川邸、そして山南や伊東甲子太郎等非業の死を遂げた隊士の墓がある光縁寺、新選組が大砲の演習をした壬生寺は、お互いに相当近く、わずか直径500mの円の中に入ってしまいます。
さらに芹澤鴨をはじめ新選組幹部が、頻繁に宴席を開いた花街島原と屯所のある八木邸の距離は、わずか1km、徒歩10分程度。二番目の屯所である西本願寺と島原の間も、徒歩10分。
これでは、新選組の屯所は、花街島原からの距離によって選定されたと見なされても仕方のない位置関係にあります。
なにしろ、現代と異なり、タクシーのない時代であります故、飲みに行くのに、歩いていけるか否かは、我々が想像する以上に重要な選考ポイントだったのかもしれません。

一方、坂本竜馬がかくまわれていた三条河原町の酢屋と長州藩士が頻繁に会合を重ねていた池田屋は、なんとわずか150m。
坂本と中岡慎太郎が京都見廻組に暗殺された四条河原町の近江屋も500m、歩いて5分と言ったところでしょうか。お互いにビックリするほど近いのであります。
これでは、もし新選組が竜馬を捜そうとするならば、一日中河原町通りをブラブラしていれば、難なく竜馬に遭遇したはずであります。
さらに興味深いことは、こうした薩長や竜馬の京都における根拠地とも言える狭いエリアと花街祇園も、これまた歩いて1km、徒歩10分圏内と恐ろしく近いのであります。四条大橋で鴨川を渡れば、もうそこは花街祇園なのであります。

奇しくも、新選組と花街島原、竜馬と祇園の位置関係は、いずれも徒歩10分圏内で、ブラブラ歩いて帰れば、酔い覚ましにちょうど良い加減の距離であります。これは、はたして偶然なのでありましょうか?
さらに、東の竜馬、西の新選組、それぞれの根拠地エリアを隔てる距離は、約3km、徒歩で30分程度という微妙な距離であります。
この距離を乗り越えクロスさせて、新選組が祇園に、あるいは竜馬が島原に遊びに行くことは、ほとんどあり得なかったのではないでしょうか。(それにしては、島原の輪違屋に長州の桂小五郎の書があったのはなんでだろう?)

また、この距離を乗り越えて、新選組が池田屋にご用改めを仕掛けるには、はるばる約30分歩いていくか、または20分ほどジョギングしてやっと到着できたはずであり、それはそれで相当の気合いが必要だったはずであります。

最後に、新選組と竜馬それぞれのエリアのうち、新選組エリアでは八木邸をはじめかなりの史跡が現存しておりますが、東の河原町通りを中心とした竜馬の根拠地エリアでは、酢屋がかろうじて残っているものの、池田屋も近江屋も跡形もなくなっており、目立たない地味な石碑によりかろうじて場所が確認できるだけであります。
これは、河原町通りがあまりにも繁華街として発展してしまい、地価が相当高水準となってしまったためと思われます。

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ちなみに三条河原町の池田屋は、ご覧の通り思いっきり派手なパチンコ屋さんとなっております。
これを見て、かの糸井重里大先生は「おれだったら池田屋という名前にするのに・・・」とおっしゃっておりました。

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一方、竜馬が暗殺された四条河原町の近江屋の方は、ご覧のようにこれまた派手な旅行代理店となっておりまして、ここもさみしく石碑で存在がやっとわかるだけです。
私がこの石碑の写真を撮影していた時に、たまたま出会った学生風の旅行者は、「これじゃぁ~、さみしいですねぇ~」と慨嘆しておりました。

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中岡慎太郎の顔(京都新選組旅行5)

京都東大路通りのバス停「東山安井」で市バスを降りて、護国神社に向かって歩いていくと、通称「維新の道」という大層急な坂道に行き当たります。
この坂道をハーハー息を弾ませながら登り切りますと、右側に新選組をはじめ明治維新関係資料5000点てんこ盛りの霊山歴史館。左に曲がり、さらにしばらく坂道を登ると、明治維新史跡「旧霊山(りょうぜん)宮修墳墓」と名付けられた維新の志士1356名の墓石群があります。

このお墓のひとつひとつをじっくり見てみますと、錚々たる維新の志士の名前が次から次へと出てきます。
最も目立つのが、1867年京都近江屋で一緒に暗殺された坂本竜馬と中岡慎太郎の墓で、墓石が並んで立っています。
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このほか、この史跡に墓のある主な人物を挙げます。
まず、1864年、新選組による池田屋事件の殉難者である長州の吉田稔麿、肥後の宮部鼎蔵。同じ年、禁門の変で散った長州藩、久坂玄瑞・来島又兵衛・入江九一。安政の大獄で処刑された若狭の梅田雲浜。生野の変で捕らわれた福岡・平野国臣。天誅組総裁土佐脱藩吉村寅太郎。それに桂小五郎の妻幾松のお墓もあります。

今を遡ることわずか130年~40年の頃の志半ばで倒れた若者達であります。この時間的な近さは、仮に生まれる時点と場所が少しずれていたならば、自分がこの墓のひとつに入っていたかも知れないと思わせるものがあります。
さて、これらの志士の中でも坂本竜馬と中岡慎太郎、とりわけ「中岡慎太郎の顔」に注目してみたいと思います。

竜馬は、土佐藩の豪商才谷家の分家で町人郷士と言う下級身分の家に生まれ、江戸の千葉定吉道場で北辰一刀流免許皆伝の武芸の腕前はあるが、名のある塾で勉強したことは伝えられていません。
一方、慎太郎は、同じ土佐国の中の東部安芸郡北川村の大庄屋の長男として生まれ、十四才にして島村塾の代講を勤めたほどの秀才であったようであります。
わかりやすく要約しますと、2人とも金持ちではあるものの、武士とは言えない生まれであることが共通しており、竜馬は武芸の能力が抜きんでていたが勉強がまるでだめな一方、慎太郎は全く竜馬の逆だったということのようです。

ちなみに中岡慎太郎が生まれた安芸郡は、大層気の荒い気風で有名な土地柄だそうで、かの三菱財閥の創始者岩崎弥太郎も同時代に輩出しておりますが、彼の青年期の安芸時代には、あまりに粗暴で喧嘩ばかりしているので、「悪弥太」とあだ名されていたと司馬遼太郎が書いております。

この2人は、維新の帰趨を事実上決めた薩長同盟を実現させた功労者として有名ですが、実際に、周到に薩摩・長州を説得して廻っていたのは、慎太郎の方だったようです。事務的能力も高く、非凡な論理形勢能力を持っていた慎太郎のねばり強い弁舌こそが、長州桂と薩摩西郷を動かしたとも言われております。
ではなぜ、竜馬の貢献度が高く見えてしまうのかという点についてですが、薩長同盟成立の最後の決定的局面であったところの京都薩摩屋敷での西郷・桂の首脳会談の場において、必死に仲介して暗礁に乗り上げがちであった両者の間を取り持ったのが、竜馬でありました。一方、この時慎太郎は、太宰府にいる五卿の護衛という役目があったため、太宰府を離れられず、この肝心の場面に不在だったために、後世の史家の業績評価において、竜馬に大きく及ばない結果となってしまったようです。(この点については、ねこづらどき「新選組!29の2」参照)
しかしながら、殺される時は一緒に殺されてしまったわけで、そうしてみると、慎太郎という人は、よくよく運のない人だったような気もします。

ところで、竜馬の写真は数多く残っているのですが、慎太郎の写真と言えば、知られているものは、2枚だけなんです。このわずか2枚の写真が、私にはきわめて印象深く感じられるものなのでここにご紹介します。

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ご覧のようにこの写真は、非常に厳しい面魂で俗に言う「命懸け」あるいは「必死の形相」とはかくあらんとも思われるすさまじい形相で、相当に気迫の強い人であったろうことが忍ばれます。この写真を見る人の多くに、彼の魂魄のすさまじさを強力に印象づけると思われます。
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一方、もう一枚の写真はご覧のように、シャイで穏やかな性格をいきいきと写し取ったもので、親しみやすそうな性格が忍ばれます。

この二枚の写真で活写された相貌を行き来しながら、ある時は必死に、ある時は優しく穏やかに、わずか30年の人生を、文字通り命を捨てて駆け抜けていった慎太郎の一生を、我が身と比べて思う時、意識の底に重低音で慎太郎から、しっかりせよと叱咤される思いです。

「こらっ、こらっ、しっかりせんかい!人生は短いぞぉ~!」

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竜馬ファン垂涎の伏見寺田屋(京都新選組旅行4)

定期観光バス特別コース「新選組と竜馬ゆかりの史跡巡り」のハイライトは、何と言っても、伏見の寺田屋であります。竜馬ゆかりの遺品や写真が、夢のようにふんだんにあふれています。
そこで、今回は写真を多めにしてみました。
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伏見の寺田屋界隈は、江戸時代の初めから淀川を往来する三十石船や高瀬舟で活況を呈し、明治のはじめ頃まで十数件の船宿が建ち並んでいたそうで、寺田屋はその中で唯一現在まで残存し、当時の面影を色濃く残しています。
外見は写真の通りで、大河ドラマ「新選組!」でご用改めにあった捨助ほか長州藩士達が、よく二階から飛び降りて逃げますが、飛び降りても決して危険ではない高さだとわかります。
ちなみに、壬生から伏見までは、バスでも一時間以上かかりますから、乗り物のない幕末に新選組はどうやって伏見まで行ったんでしょうか?船なら船着き場が特定されてすぐわかってしまうので、不意打ちのご用改めは出来ないはずなんだけれども・・・?(ガイドさんの説明では、京都・伏見間の船便の所要時間は半日だそうです)

また、寺田屋の内部は、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の描写では、相当広く感じられますが、実際に見てみると、一階・二階ともに3部屋で合計6部屋程度でしたか、無茶苦茶狭いという印象です。
しかし、考えてみますと、船待ちの泊まり専用の宿ですから、当然雑魚寝だったのでしょうし、この程度の広さで支障はなかったのかも知れません。
それにしても、こんな狭い船宿にもかかわらず、長期間にわたって竜馬に二階の一番いい部屋を貸し与え続けた女将お登勢の竜馬に対する好意は、尋常ならざるものがあったと思います。

寺田屋で起こった最初の悲劇は、文久2年(1862)の有名な寺田屋騒動です。
薩摩藩の過激派有馬新七らが藩の説得に応じず、制止しようとする藩主の命を受けた同じ薩摩藩士との間で刃を交え、九人が殉難した悲劇です。結果的に、もしこの事件がなかったならば、公武合体の下に封建の世はなおしばらく命脈を保ち得ただろうとも言われておりまして、その意味でも歴史を作った重要な舞台のひとつが寺田屋だと言えます。
寺田屋の床や柱は、こうした前途有為の青雲の志士達の血が塗り込められているような不思議な重厚さが感じられ、思わず厳粛な気分になります。

寺田屋を舞台にした事件で、もうひとつ有名なものは、慶応2年(1866)1月23日、竜馬と中岡慎太郎の献身的な努力によって、京都薩摩藩邸において、西郷と桂の間で薩長同盟を成立させるという大仕事をなし遂げ、やれやれと伏見寺田屋に戻り、妻おりょうと祝宴を開こうとした竜馬は、寺田屋の周囲を多数の役人に取り囲まれ、絶体絶命のピンチに遭遇します。
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この時、入浴中のおりょうが写真の風呂場の窓から異変に気づき、裸のまま唖然とする役人の前を通り過ぎて、竜馬に知らせたというエピソードはあまりにも有名であります。
竜馬はこの際愛用のピストルを使用して悠然と逃げ切り、伏見薩摩藩邸にかくまわれます。この時、竜馬は右手の親指に重症を負います。
下の写真は、今も寺田屋に残る、その際竜馬が発射したピストルの弾の痕と言われております。(いやぁ~、この弾痕ひとつだけでも、相当の感動ものです。見てください、おまけに手書きですよ!)
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この傷の治療のために竜馬はおりょうと長崎に長期間の養生に行きますが、この長崎時代は実質的に竜馬とおりょうの新婚旅行であり、おりょうにとっては人生で最も幸せな時だったと思われます。

その他、竜馬が幕臣勝海舟と協力して心血を注いだ神戸海軍操練所の写真は、私にとって初めて見るもので、非常に興味深いです。資金のない中で苦労して作り上げた海軍操練所であるだけに、相当粗末なものと想像していましたが、ご覧のように予想以上に立派なので驚かされました。
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最後に、ドラマではわれらの戸田恵子姉さん扮するところの寺田屋の女将お登勢の貴重な写真もありましたよ。チャキチャキの伝法で粋なお姉さんだったらしい雰囲気が伝わってきますよね。
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NHKと花街島原[京都新選組旅行3]

新選組を探訪する京都旅行には、いろいろな方法があります。
観光タクシー・レンタサイクル・地道に電車とバスの乗り継ぎ等々、それぞれお好みでさまざまな組み合わせが可能です。
しかし、花街の島原や祇園の御茶屋さんを覗きたいということであれば、定期観光バスが文句なしに最も効率的な方法となります。
その中でも私のお薦めは、7/24~9/30の期間限定ではありますが、「京の夏の旅」[新選組と龍馬ゆかりの史跡巡り]と題された定期観光バスコースです。
お値段は九千円とちょっと高めに思えますが、内容豊富で六時間の充実した感動の新選組史跡巡りが堪能できることから、お代が決して高くないことを保証できます。
新選組隊士がよく通った揚屋として知られる島原角屋、浅田次郎の小説の舞台となった置屋輪違屋、龍馬ゆかりの品が惜しげもなくあふれている船宿寺田屋、戊辰戦争の際の薩摩藩の前線基地御香宮、そして京料理の老舗で戊申戦争時の銃創が残る「魚三楼」で京料理の昼食を取るという夢のような一日がすごせます。

今回は、その定期観光バス「京の夏の旅」で、バスガイドさんや島原のシルバーガイドさんから仕入れたおもしろい話を紹介します。それは、現在大河ドラマ「新選組!」により京都観光に大貢献しているはずのNHKと花街島原の意外な確執についてなんであります。

島原の角屋は、現存する揚屋建築の唯一の遺構であり、国の重要文化財に指定されております。
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揚屋とは、置屋から太夫など芸妓を呼んで宴会を行ったところであり、今で言う料亭にあたります。当時、新選組隊士達は頻繁に押しかけていたようであります。
これに対して、今年の夏に特別公開されている輪違屋は、多くの太夫や芸妓を待機させて、揚屋に派遣する置屋であり、近藤勇筆の屏風も見学できます。とりわけ、二階にある襖に道中傘の紙を張り込んだ「傘の間」は、斬新で独特の迫力を感じさせる文句なしのおすすめスポットであります。

ここで「太夫」さんの定義について、少し詳しく説明します。
太夫とは、「こったい」とも呼ばれ、島原の傾城(公認により遊宴の席に連なる女性)の中でも最高位とされ、単に美しいだけではなく、茶・花・詩歌・俳諧・舞踊・文学などあらゆる教養を身につけ、従五位の身分に相当し、宮中への参内も許されたという非常に格式の高い芸妓なのでありまして、ガイドさんの話では、零落した宮家のお姫様である場合も少なからずあったのだそうであります。

ところが、特に関東出身者にとっては、この島原の「太夫」と吉原の「おいらん」の区別がつきにくいため、NHKと花街島原の間で修復しがたいトラブルが発生してしまったのだそうであります。
すなわち、島原の太夫についての定義をよくお読みいただければ容易にご理解いただけますように、実は江戸吉原の「おいらん」とは全然違ったものでありますし、この違いが島原のプライドなのであります。
もっとわかりやすく単刀直入に申しますと、「吉原のおいらん」は体を売りますが、「島原の太夫」は高度に洗練された芸を売るのでありまして、体は売らないということなのであります。
この島原のプライドを知ってか知らずか、昨年のNHK大河ドラマ「武蔵」におきまして、島原の太夫役のなんと我らのキョンキョンこと小泉今日子が武蔵の前で、着物を脱ぎ肌を露わにし、あたかも体を与えるかのようなシーンがあったんだそうでありまして、島原は業界挙げて激怒したのだそうであります。
さらに、今年の大河ドラマ「新選組!」におきましても、あの優香演じる深雪太夫の長いかんざしが髪に縦にさされていましたが、これも島原では横にさされるものだそうで、島原の怒りに油を注いだのだそうであります。(なお、この間違いについては、番組中で既に修正されております。)

とまぁ~そんなわけで、現在、NHKは京都島原の花街に対して、出入り禁止の罰を科されておりまして、番組スタッフが切望する「新選組!」の現地ロケを、角屋でも輪違屋でも、許されていないのが、実情なのであります。

最後に、輪違屋さんでのツアー観光客とシルバーガイドの粋なやりとりを採録しておきます。
観光客「質問なんですが、太夫さんを呼んで揚屋で遊ぶには、予算はいくらぐらいかかるんでしょうか?」
ガイド「太夫遊びというものは、男が全身上をかけて遊ぶものなんです。したがって、いくらだろうなどと、ご予算をご心配されるような方はもともと遊ぶ資格がないのでございます。」
観光客「あっ!・・・・」
以上です。

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新選組の食玩[京都新選組旅行2]

お菓子の種類の中に食玩というカテゴリーがあります。最も有名な物は、「おまけ付きグリコ」ですよね。
また、私の小学校時代には、「仁丹野球ガム」に夢中になったことを思い出します(改めて考えると、仁丹がガムを売るって、何か変ですね)。このガムの中には、おもちゃではなく、野球カードが入っていました。

今回の京都旅行で、この「食玩」の一種と思われる不思議なお菓子に出会いました。
「新歴史浪漫[新選組・池田屋騒動]」という、いわば「新選組フィギュア付きキャラメル」とでも呼ぶべきお菓子です。
このお菓子には、いくつかの不思議な点があるのですが、まず、第一の不思議は、その長い商品名です。
一体全体、「新歴史浪漫[新選組・池田屋騒動]」などという名前の箱を見て、これがキャラメルだと思う人は、何人いるでしょうか?また、名前だけを見れば、幕末関係の歴史の本だと勘違いする方が少なからずいると思われます。

第二に、東京でこの食玩を見たことは、一度もありません。
どうやら、このお菓子(・・・お菓子と呼ぶには、あまりにもフィギュアのウェイトが大きいのですが)は、京都・大阪など関西を中心に販売されているようです。

第三の不思議は、「なぜ、フィギュア付きキャラメルにしなければならなかったのか?」という問題です。
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上の写真でおわかりのように、新選組のフィギュアは、かなり精巧なもので、相当の新選組マニアでも満足のいくものだと思われます。こんなグレードの高い精巧なフィギュアに、なぜたった2個だけのおいしくもないキャラメルをわざわざ一緒にして売る必要があるのでしょうか?
これが、実は最大の謎なんです。

箱の中に一緒に封入されている2個のキャンディは、昔あった明治のサイコロキャラメルと同じような物だと思っていただければ、想像しやすいでしょう。
わかりやすく言えば、2個で10円程度(サイコロキャラメルは5円だったかな?)の価値のキャンディだということです。この新選組フィギュア付きキャンディ1箱のお値段は、250円ですから、ざっと推計すると、240円のフィギュアにたった10円のキャンディをわざわざ一緒に箱に入れて売っていると言うことになります。

販売者は、大阪市生野区のフルタ製菓(株)となっています。
フルタ製菓のHPにアクセスするとわかりますが、驚いたことになんとこのお菓子会社は、フィギュアを中心とした食玩を専門としているようで、今後、新たな新選組シリーズも発売する予定のようです。
この新選組池田屋騒動シリーズでは、全13種(色違い3種を含む)とは別にシークレットが1種類、全部で14種類となっています。私が買ったキャンディには、なんと「武田観柳斎」が入っていました。この観柳斎の顔が、TVの例のおかっぱメガネ八嶋智人とは似ても似つかない恐ろしい顔をしているのが、印象的です。

京都のお菓子屋さんのおばさんに「おばさん、箱の中に何が入っているかわからないの?」と聞くと、「そうですねぇ~」とのんびりした答え。「じゃ、10個買っても、全部同じフィギュアかもしれないの?」と聞くと、「そうですねぇ~、そんなことないと思いますけど~・・・」と、またまたのんびりした答え。
このフィギュアの精巧な出来をもってすれば、全種類勢揃いのセットで売っても、三千円以上で売れると思うんですが、一体全体、なんで箱の中に何が入っているかわからないフィギュア付きキャンディにわざわざしなければいけないのでしょうか!
私は、一瞬憤然としたものの、京都まで来て、お菓子屋のおばさんと議論しても何も得るものはないとあきらめまして、結局1箱だけ買ってみたわけです。

こうした形式で、フィギュアを売ろうとする発想は、ひょっとすると関西人特有のもので、関東の企業では発想しないし、消費者も関東では買う気にならないのではないかと思います。

私の小学校時代の仁丹野球カードの経験から推測しますに、きっと近藤勇や土方歳三の入っているものは非常に少なくて、武田観柳斎あたりは、くさるほど入っているんだろうと思いますよ・・・・。

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