私だけの浅草

かつて「浅草ウラ観光案内」として「やきそばの花屋」や「東本願寺」「警視庁菊屋橋署」などをご案内しましたが、今回はその続編として、私だけの記憶に焼きついている私を作った私だけの浅草の思い出を写真と一緒にお送りします。

Sdsc00159 まず、最初は今のJRA馬券売り場の近く初音小路のほか「牛すじ煮込み屋」が集中する場所です。飲み物の定番は当然ホッピーです。
私にとってなぜ記憶に焼きついているのかと申しますと、別に若い時によく飲みに来たということではありません。もっと前、私が小学校の1~2年の頃、私の父親によく連れて来られたのがここなんです。
私の父親は電気屋の職人でして、家庭サービスなどというものにはトント縁がなかったんですが、唯一のサービスが浅草に映画を見に連れて行ってくれたことなんです。そして、食事はこういう場所で小学校低学年の私には煮込みを食べさせて、自分はホッピーでいい気持ちになっていました。私は柄の悪い職人風の酔漢の中で食べさせられるのが心底大嫌いでしたが、今冷静に振り返ると、私の性格形成には逆に相当良い影響を与えているのかもしれないという気がしています。結構本気でそう思います。

Sdsc00163 これも6区映画街の真ん中、ご存知「ロック座」です。八波むとし、由利徹、渥美清、そして最近ではビートたけしに至るまで、陸続とスターを輩出してきたストリップ劇場です。
私が小学校低学年の時に父親に連れられて6区映画街に通りかかった時は、まっすぐ前を向いているふりをしながら限界まで目の筋肉を緊張させて横目で看板を見ていたませた小学生が私だったんです。あの頃、渥美清はロック座に出演していたことになります。
今はご覧のようにビルになってしまいまして、隣はスロットマシンです。

Sdsc00156 次は有名なプロマイド専門店の「マルベル堂」です。今やプロマイドという時代ではないと思うのですが、いまだに浅草寺の仲見世に堂々と店を構え、全盛期の賑わいを髣髴とさせる繁盛振りで健闘しています。
店の入り口にはアーチのようにご覧の大看板がかかっています。この看板を見れば、芸能界の歴史が過不足なく振り返れます。美空ひばりと山口百恵が別格扱いで大写真であるのは当然として、石田あゆみ、浅田美代子、岸本加代子、藤圭子、あべ静江、松原智恵子といったところの若き日のプロマイドが拝めます。それにしても、人選がすっばらしいんだよなぁ。

Sdsc00152 お次は、数ある浅草のレコード店の中で伝通院通り近くの「宮田レコード」を挙げさせてください。
今を去ることなんと39年前!!
フォーククルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」という大ヒット曲がありました。作曲は加藤和彦、深夜番組から火がついて堂々280万枚!!の売り上げ。
例の♪おらは死んじまっただぁ~♪で始まる不朽の名曲であります。
当時、紅顔の大学生であった私は、このレコードを求めて浅草中を探し回っておりました。なにしろ、「帰ってきたヨッパライ」という曲は今では考えられないような大ブームでありまして、日本中のほとんどのレコード店で「品切れ」という前代未聞の事態だったからであります。
「ない!」と言われると、どうしても欲しくなるのが人間の業というものでありまして、狂ったようにレコード店を漁っていた20歳の私が、かれこれ10件目と思われるこの「宮田レコード」でくだんのレコードを無事入手したのであります。いやぁ~、本当にうれしかったです。

Sdsc00158 まだまだ思い出は尽きないのでありますが、とりあえず今回のトリといたしましては、「雷おこし常盤堂」の「田原町店」を紹介させてください。
取り壊されて今はない旧仁丹塔のまん前の位置の店であります。
私は故あって傷心の大学2年時代の正月をぶち抜いて、何かの行にでも打ち込むかのごとく、この店でひたすら売り子のバイトに集中して精を出していました。
しかし、実際には、正月の雷おこしというものは、「精を出す」というほど生易しいものではございません。
あらゆる想像を超える恐るべき数のお客さんの手が差し出され、代金を握り締めながらおこしを買い求めるのです。正直言って、お金のやり取りを正確には確認しないで品物を渡さざるを得ない状況だったのであります。
今ぼんやりと思い出すのは、その時差し出された恐るべき数の手と、何をやってもうまくいかなかったその年の正月の私のアンニュイな気分であります。

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謎の集合住宅「清洲寮」

Sdsc00165 都営大江戸線及び東京メトロ半蔵門線の「清澄白河駅」の清洲橋通り側の出口のまん前に写真でご覧のように、建てたのはおっソロしく古そうだが、よく見ると丁寧にメンテしていそうでレトロ趣味の方には垂涎の的のような集合住宅らしき建物があります。
この建物、1階は駐車場またはテナントになっていて、2階以上が住宅のようです。
写真の中央に2階以上に行くための階段があり、そのうえに大きく「清洲寮」と看板があります。
私がこの清洲寮の中に入ったのは、はるか昔、今から50年以上も前の私がまだ小学校入学したての頃と思われます。この住宅は白河小学校のまん前ですから、当然白河小学校の学区域だったはずでして、明治小学校の私たちとは接点がなかったはずですから、ただただ階段すべり程度の遊び場として利用したと思われます。したがって、悠に50年以上は経っている住宅のはずです。

Sdsc00166 現在の私の通勤経路上にも位置している縁もあって、私はいつもこの住宅の存在を不思議に思っておりました。
すなわち、「この集合住宅はどのような来歴があるのだろうか?」「同潤会アパートの一種であろうか?それにしては一向に建て替えの様子がなさそうだ。」「それに同潤会であったら、あの清洲寮という看板は一体何なんだ?」「清洲寮とあそこまで大きな看板を掲げるからには、きっと質素で倹約第一の堅実な企業の寮なのであろうか?それとも消防庁の寮かも?」などなど・・・妄想していた次第であります。

ところが、暮れの朝日新聞「わが家のミカタ」で、たまたまこの住宅に関する特集記事が掲載されておりまして、すべての疑問が氷解いたしましたので、謹んでここに大要を引用させていただきます。

ます゛、所有者は嵐田雅子さん(65)、彼女のおじいさんが当時ヨーロッパで最新の集合住宅を見てきた工務店主に頼み、なんと完成は昭和7年!! なんとあの深川大空襲の時は白河小学校のプールからのバケツリレーで延焼を免れたそうであります。あらゆる予想を凌駕する古さです。
一時期は空き部屋に悩んだようですが、空き部屋にユニットバスをつけると、レトロ好みの若者が続々と入居、おまけに地下鉄大江戸線開通で一気に好立地。それでも家賃は2Kで6万円台と超お安い!!今では全66室の3分の2が若者だそうである。
メンテは外壁塗装3回、防水工事2回、配管交換数知れず、だそうである。どうやら、露出配管のため、「配管交換数知れず」というのが長持ちの秘訣のようである。
ガレージには、漢字カタカナ交じりの注意書き、住戸の玄関は木の格子戸、部屋番号は階段別に「イ号」「ロ号」の○番といった具合。したがって、映画ロケも頻繁だそうである。

清澄白河駅近辺ばかりではなく、今や東京中見渡す限りの高層・超高層集合住宅だらけであり、大震災がきたならばどんな黙示録的阿鼻叫喚の光景が展開されるのだろうかと、想像するだけでも息が詰まるような今日この頃でありますが、そんな中で、この清洲寮を眺めていますと一服の清涼剤であり、なぜか気持ちが落ち着くのは私だけでありましょうや?

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今に残る昔の銀座写真集

十年ぶりくらいで本当に久しぶりに銀座をしっかり歩いて見ましたが、知らないうちにずいぶん変わってしまっているんですね。
どう変わってしまったかと言いますと、前の銀座は実は相当に下町的な土地柄だったはずなんですが、今はなんと言いますかいわば「豪華な」と形容すべき高級趣味の外国ブランドのアンテナショップ的な店に軒並み席巻されてしまっているんですねぇ。寂しいことです。
そうは言いましても、昔どおりの銀座ももちろんありましたので、デジカメに活躍してもらい、今回は昔の銀座を探訪した写真集です。

Sdsc00108 ご存知銀座和光です。かつて昭和29年に初代ゴジラを迎え撃って以来、数々の怪獣に傷つけられてきたビルです。その後、東京タワー、そして今は都庁にその栄光の地位を明け渡しています。
また、大晦日のカウントダウンでも毎年おなじみです。このビルは銀座のシンボルとして永遠に変わらないで欲しいものです。





Sdsc00109 フロールドカフェ「銀座樹の花」です。
開店した昭和54年に偶然ジョンとヨーコ夫妻がおとずれています。
写真右端の入り口から入り、カフェは二階になります。
ジョンとヨーコ夫妻は「コロンビアコーヒーとアーモンドクッキー」を注文したそうです。
現在この組み合わせを「レノンセット」として940円で楽しむことが出来ます。



Sdsc00110 歌舞伎座の裏側です。歌舞伎座は裏も表も昔のままですが、私は学生時代によくこのあたりに出没しましたので、とりわけこの写真のような裏側の光景がなつかしいんですね。
現在の建物は昭和26年建築ですから相当のものであり、5年後をめどに改築が検討されています。きっとまた、思いっきり変わってしまうんだろうな・・・今のうちに目に焼き付けておきましょう。
なお、元フォーク歌手のなぎら健壱や前野曜子はこの近辺で育ったはずです。


Sdsc00112 三原橋のうらぶれた地下のピンク映画館街が、なんとまだ残っていましたよ!!
これはサプライズです。しかし、看板を写真に取るのがはばかられるようであった映画館は、ご覧のようにイッセー尾形の「太陽」のロードショー上映館に姿を変えておりました。ずいぶん出世したものです。


Sdsc00115_r1_2 次なるこの神社は一体どこでしょうか?
意外なんですが、銀座にはビルの片隅に小さな神社が結構沢山あるんです。
写真の神社は、その中でも大変異色で、ビルとビルの薄暗い隙間を縫うように入っていって、やっと一番奥で巡り会える、いかにもご利益のありそうな神社です。
名前は「豊岩稲荷神社」、縁結びのご利益があり、女性に人気の神社だそうです。場所の目安は資生堂のビルの裏です。







Sdsc00116_1 これは明治11年創立、堂々130年の歴史を誇る泰明小学校の正門です。
なんと当時の南仏の貴族の館から移築したものだそうです。ツタが絡む外観、カーブを描く壁面、アーチ窓などただの区立小学校とは思えないほど贅沢な意匠です。
島崎藤村と北村透谷が主な卒業生。
今年度も全六学年で、学生数365人と善戦健闘中です。やはり学区域廃止の影響で人気上昇しているのかしら?


Sdsc00118_1 この写真では建物ではなくて、人待ち顔の人々に注目してください。
東京宝塚劇場の入り口にたむろしてスターたちが出入りするのをひたすら待っているファンの方々であります。
スターたちも長年の風習として、あえて入り口を通って出入りし、ファンにサービスするんですね。
今も昔も変わらぬ光景であるわけです。




Sdsc00119_1 次は、これも堂々大正12年開設、ご存知日比谷野外大音楽堂のいつに変わらぬ入り口のアーチでございます。
通称を「野音」と申しまして、ある時は学生集会に、ある時はフォークコンサートに、団塊の世代の青春の思い出が詰まっており、「今に残る昔の銀座写真集」として欠かせない名所であります。
私はここで浅川マキを聞いた記憶がありますが、また彼女が野音にぴったりなんだよなぁ・・・


Sdsc00120_1 この場所も日比谷公園の中にあり、公園の一番霞ヶ関寄りになります。
ここも知る人ぞ知る有名な場所でして、写真に写っているのは、鉄棒と吊り輪の施設です。この場所には毎週鉄棒の同好の人々が集まって、お互いに切磋琢磨しているそうであります。
結構ハードな練習のようでありまして、一度テレビでも取り上げられていました。



Sdsc00121_1 最後は、これも日比谷公園内の何の変哲もないベンチです。
日比谷公園のベンチは「思い出のベンチ」というシステムが普及しておりまして、15万円程度の寄付をすれば、ベンチに寄付者の名前などを記入した記念プレートをつけてくれるんですね。幸いにしてこのベンチは思い出のベンチの範囲外のようです。
ではなぜこのベンチを取り上げたかという問題についてでございますが・・・
故あって黙秘させていただきます。

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映画「洲崎パラダイス・赤信号」の現場を歩く

今回は、3回前に書いた映画「洲崎パラダイス・赤信号」(昭和31年作品)の各シーンの現場を実際に訪ねて、五十年後の今がどうなっているか、確認してみることにしました。
若干オタク的になってしまいますが、どうかご容赦ください。

Sdsc00096 [そば屋]
まず、三橋達也と新珠三千代の二人が、当時のバス停「洲崎弁天町(現在は東陽五丁目)」で都バスを降りて、洲崎パラダイスのアーケード方向へ足を向けたところで画面に写るのが、角のそば屋です。このおそば屋さん、なんと今でもあるんですねぇ。少なくとも創業五十年以上であることは間違いないことになります。



Sdsc00095 [洲崎橋]
当時の洲崎パラダイスへの夢の架け橋であった洲崎橋は、「洲パラダイス崎」と大書されたアーケードともども今は存在しませんで、あるのは写真の銘板だけです。




Sdsc00094
[千草跡]

着の身着のままで転がりこんだ三橋達也と新珠三千代の二人を気前よく受け入れた女将轟夕起子がやりくりする小さな酒の店「千草」は、ご覧のように今はおもいっきりうらぶれた不動産屋に代わっていました。ひょっとすると、建物自体は、当時と躯体は同じものではないかと疑わせるほどに古いものとお見受けしました。驚くべきことに、写真左側店の入り口には、洗濯物の干し場があるのが、映画と一致しています。ひょっとして、五十年間も洗濯物を干し続けてきたのでありましょうや・・・・・
映画では、この建物の裏側から川へ直接降りられるようになっていて、小さな船着場があり、「貸しボート」も兼業していましたね。

Sdsc00091 [沢海橋]
轟夕起子と新珠三千代と川津清三郎の三人が、川津の自転車を真ん中にして、話し合う場面では、この写真の位置から後景に沢海橋が写ります。新珠三千代が轟夕起子の店を去り、川津の囲われ者となるために、轟にこれまで世話になった礼を言った後、川津と今まさに新しいアパートを探しに行こうとする場面です。この場面の直後に、なんと川津は新珠を自転車の後ろに乗せて二人乗りで去っていくんですねぇ。
今では考えられない素朴なシーンです。

Sdsc00092 [洲崎神社裏]
写真は、ちょうど洲崎神社の拝殿の真裏になります。沢海橋方向から来ると、正面の石の階段が洲崎神社にお参りする近道になります。新珠がこの石段を降りようとすると遊郭の女たち数人とすれ違います。女たちが新珠を指差して「あら? どこかで見た顔ね。」と言い合うのを、顔を隠すようにしてやりすごす新珠というシーンでしたね。

以上のように、映画は昔の景観の貴重な宝箱にもなるんですねぇ。
いゃ~、すっばらしいことです。



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洲崎についての雑学

私の生まれ育った深川も、私がよく散歩する洲崎も、私が生れ落ちたときから当たり前のように私の周辺に存在し続けてきた環境なのでありますが、よくよく調べてみますと、はるか江戸の昔から連綿と庶民が暮らし、喜びと悲しみをつづってきた伝統ある庶民の町としてあり続けてきたことに、改めて驚かされます。
ということで、今回は前回の洲崎球場に続いて、洲崎に関する雑学を当代きっての博覧強記種村季弘氏の名著「江戸東京<奇想>徘徊記」から抜き読みしつつ書きます。

Susaki10mantubo 深川は、川と運河と橋の街です。
埋立地として江戸時代からひたすら埋め続けられてきた結果、江戸の頃の深川から洲崎を一望する景観は、あの安藤広重の「名所江戸百景・深川洲崎十万坪」で具体的に見ることができます。すなわち、大鷲が空に舞いながら俯瞰する雄大な雪景色となるような土地だったようです。
今はそんな面影は、当然どこにもありません。

さて、洲崎です。
川島雄三監督の映画「洲崎パラダイス・赤信号(日活)」につきましては、このブログでも既に書きましたよね。
しかし、「洲崎パラダイス」は戦後赤線時代の話で、その昔は「洲崎遊郭」があったそうです。元は根津にあった遊郭で、根津遊郭は東京帝国大学の裏手にあり、なんと学生さんの勉強の邪魔になるということを理由にして、政府の命令によりまして吉原に次ぐ東都第二のこの遊郭を明治21年(1888)、洲崎の埋立地に移転させたわけです。ここいらへんの経緯は、いやはやなかなか面白いですねぇ。特に、「学生さんの邪魔になる」というのが、笑っちゃいますよねぇ。当時は大真面目だったんでしょうねぇ。

そもそも根津は、建前上は娼妓に習字裁縫などの教養を身につけさせるためにこしらえた明治の即製女学校という性格も有していたため、「女紅場(じょこうば)」とも言うそうです。これと同種の京都の「女紅場」の跡地は、三高(現在の京大教養学部)の敷地になっているそうですから、旧帝大と遊郭のつながりは、尋常ならざる縁があったことがうかがわれます。いやぁ~、興味深いです。
明治23年の調査によりますと、洲崎遊郭の娼妓の数は1189人で、吉原の2442人に次ぐ規模だったそうです。
その賑わいの様子を、大正初年の洲崎が舞台である小説「芍薬(しゃくやく)の歌」泉鏡花が活写しておりますので、以下に引用しておきます。

汐見橋を真直ぐに、沢海橋を右に曲がって、もうちょっと左へ折れた。赤い牛肉、黄色な蛤鍋、名代のおでん、うどん、蕎麦。時節柄、氷にラムネもそろそろ青い灯を交えて、軒並みの提灯に、祭礼のような人通り。十時前後の今時分、帰る足は一つも見えぬ。廓の大門はつい目の前で・・・・」

大変な賑わいです。今では、うかがい知れない喧騒が聞こえてくるようです。そうです、九十年前の夜の洲崎を泉鏡花大先輩も歩いていたんですねぇ。

汐見橋も沢海橋も、何の感慨も抱かず、これまでノー天気に日々行き来してきた私でありますが、今日からは涙なしには渡れなくなりそうです。

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洲崎球場跡を歩く

Sdsc00066 洲崎球場は、現在の江東区新砂一丁目にあったようで、現在は警視庁第九機動隊に隣接したオルガノ㈱本社のあたりだと思われます。
我が家からはちょうど良い散歩コースにあたりますので、周辺を歩いてきました。

江東区教育委員会設置のパネルの文章を引用しながら、この洲崎球場をご紹介いたしましょう。
まず、「伝統の一戦 巨人阪神誕生の地」であることが、最大のセールスポイントであるようです。
Sdsc00067 洲崎球場は日本プロ野球草創期の野球場で、昭和11年2月には日本で6番目に結成されたプロ野球チーム「大東京軍」の本拠地でした。
プロ野球結成の気運は、これより前、昭和9年開催の日米野球の成功により高まりました。同年12月、大日本東京野球倶楽部(現在の読売巨人軍)が結成されると、東京・大阪・名古屋に相次いでプロ球団が誕生し、昭和11年には、7球団によるプロ野球公式戦が開始されました。
しかし、この時東京にはプロが使用できる肝心の球場がなく、在京球団の本拠地建設が急がれました。後楽園球場も神宮球場もまだなかったんですねぇ。このため、この洲崎球場は、わずか三ヶ月の突貫工事により完成させられました。

この年(昭和11年)記念すべき初のプロ野球日本一決定戦(三連戦)はなんとこの洲崎球場において、巨人と阪神の間で戦われ、あの沢村栄治投手を擁する巨人が初代王座を獲得しています。その後、伝統の一戦として、70年にわたって連綿として引き継がれてきた巨人阪神戦は、昭和11年のここ洲崎球場からはじまったことになります。
しかし、洲崎球場はその後昭和13年を最後に閉鎖されておりますので、信じられないことに結果的にはわずか三年間の短い命だったことになります。

今、この洲崎球場の周辺を改めてたどってみますと、いくつか不思議な事に気がつきます。
Sdsc00068 まず最も不思議なことは、球場のロケーションがあまりにも東京のはずれであると言うことです。
今でこそ、当地は地下鉄東西線東陽町駅徒歩5分の大変交通アクセスの便利な場所にありますが、昭和11年頃は都電やバスでしかアクセスできない大変辺鄙な場所で、南側および東側は東京湾に面していて埋め立て工事中で満潮時にはグラウンドに海水が浸水してきて中止になることもあったようです。また西側はあの洲崎遊郭(戦後は洲崎パラダイス)に隣接していたはずです。
洲崎球場の平面図をご覧いただきますと、ライト方向がその洲崎遊郭にあたり、遊郭では洲崎球場の歓声が大きく聞こえたはずです。
そういう意味では、むしろ洲崎遊郭の客を目当てに球場のロケーションを選定したのではないかといううがった見方も出来ます。
何しろ在京球団の本拠地がないままに、プロ野球を創成してしまうと言う雑な運営を平気でやってしまう当時のプロ野球ですから、何でもありだったのであろうと推測できます。
また、ナイター設備などありませんから、みんなデーゲームだったのでしょう。

とある日曜日、都電とバスを延々と乗り継いで、東京の東南の果てにある洲崎球場で巨人阪神の熱戦を堪能して、帰りには隣の洲崎遊郭で遊んでいくというのどかな一日。
昭和11~12年の庶民生活としては、とっても粋でハイカラな休日の過ごし方だったのかもしれません。

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ああ彰義隊

Sdsc00036 慶応4年(1868)正月、徳川慶喜は大政奉還後、鳥羽伏見の戦いに敗れて、大阪から海路江戸へ逃げ帰ります。その後、有栖川宮熾仁(たるひと)親王を総督とする明治新政府軍が江戸に向かいます。慶喜は上野寛永寺で恭順蟄居します。3月、勝海舟と西郷隆盛の巨頭会談の結果、江戸無血開城が決まります。
徳川家の処分が官軍の間で議論されている一方で、和平に不満を持つ旧幕臣の一部が彰義隊を結成し、上野寛永寺に立てこもります。
慶応4年5月15日早朝、大村益次郎指揮の東征軍が、上野の山に立てこもる彰義隊に総攻撃を仕掛けます。世に言う上野戦争です。
彰義隊三千人に対して、新政府軍はなんと7倍の二万の軍勢、圧倒的な戦力差に加えて、午後になると新政府軍はアームストロング砲を運び込み、寛永寺山内に打ち込みます。午後2時、激戦の末たまらず広小路口からの黒門が突破され、開戦後11時間で戦況は決定的なものになります。

Sdsc00028 官軍は、彰義隊に対して容赦のない厳罰で臨み、死体の後片付けさえも許さなかったと言われています。遺体はそのまま雨の中を数日放置され、悪臭が漂い始めました。市民たちはその痛ましさに目をそむけ、鼻をふさぐ状況だったようです。
こうした悲惨な状況を見て、官軍の目も気にせず、敢然と彰義隊の遺体収容に立ち上がったのが、三ノ輪円通寺の住職仏磨和尚と有名な新門辰五郎らでありました。現在、上野の西郷隆盛像の裏にある山岡鉄舟筆になる「戦士の墓」は、その時の彰義隊隊士の遺体の火葬場跡です。(写真でご覧のとおりどう見ても「戦死の墓」としか読めないんですよね。変ですねぇ。)
Sdsc00030 激戦地となった黒門はこの時の縁で、写真のとおり、現在は三ノ輪の円通寺に保存されています。ご覧のように黒門とはあまり似合わない派手なお寺です。
(注)なお、蛇足ですが、昭和38年に起きた吉展ちゃん誘拐事件で、犯人の小原保が吉展ちゃんを殺害し埋めたのが三ノ輪にあるこの円通寺です。ご記憶でしょうか。

黒門には、写真でお分かりのようにたくさんの弾痕の跡がはっきりと残っています。
Sdsc00033 この弾痕は、伏見寺田屋の柱に残る竜馬の撃った弾痕とは違い、完璧な本物であります。
余談ですが、当時の銃創は、弾が大きかったこともあって、殺傷力が中途半端で、撃たれると痛みが激しいことに加えて化膿しやすく長期間治り難かったようです。伏見で襲撃された近藤勇も相当苦労させられていますし、新撰組から彰義隊にただ一人参加した原田左之助は、この上野戦争で被弾し、その傷が元で二日後わずか29才の若さで、かくまわれていた現在の江東区猿江町で、妻子を残したまま亡くなっています。

ここで、その後の上野公園について「番外編」です。

彰義隊と官軍で戦われた上野戦争後、明治維新によって江戸は東京となり、廃藩置県を契機に難民が上野の山に押し寄せ激増しました。増大する難民によって上野公園内に放置されるたくさんの行路病者(行き倒れ)収容のため、明治5年東京府により養育院(現在の都立老人医療センター)が開設されます。明治7年、上野公園内のこの養育院の一部に東京府病院が設立されます。その中のそのまた一部(50床)がはじめててん狂室として運営され、その後東京府てん狂院として精神病者を収容する施設(現在の松沢病院)として独立していきます。

以上のように、彰義隊が壊滅させられたわずか4年後、維新後の混乱の中、行き倒れだらけで酸鼻を極める同じ上野の山で、記念すべき都立病院第一号が産声を上げたのであります。

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お玉が池の千葉道場

今回は江戸時代の剣術道場について考えてみたいと思います。
江戸時代に武士として生まれた子供たちにとって、剣術の修行というものは、果たしてどのようなものであったのでありましょうか? 楽しかったのでしょうか? それとも義務感だけで親からいやいややらされていたのでしょうか?
ちょうど現代の子供たちが、親から強制されていやいや通う学習塾のようなものだったのではないかという気もします。

幕末の剣術三大道場と言えば、神田お玉が池・北辰一刀流・千葉周作の玄武館、麹町・神道無念流・斉藤弥九郎の練兵館、京橋アサリ河岸・鏡心明智流・桃井(もものい)春蔵の士学館が有名です。「位の桃井・力の斉藤・技の千葉」と評されていたそうであります。
ちょうど現代の学習塾で言えば、四谷大塚・日進などと同じ乗りで語られていたのではないでしょうか。

ということで、本日のターゲットは北辰一刀流千葉道場についてです。
実は、北辰一刀流を極めた千葉道場を発展させたのは千葉兄弟でありまして、兄が神田お玉が池の千葉周作、弟が京橋桶町に道場を開いた千葉貞吉であり、こっちの方は「桶町の千葉」とか「小千葉」と言われておりました。
北辰一刀流門下の人々で有名なところをご紹介しますと、新撰組発足の端緒を開いた口八丁手八丁の清河八郎はお玉が池、坂本竜馬は桶町、深川佐賀町に自分で北辰一刀流の道場を開いていた、後年京都油小路で新撰組に暗殺された伊東甲子太郎は距離的な近さから考えて桶町に通っていたはずです(深川佐賀町から徒歩20分)。
そして誰よりも先に挙げなくてはならないお玉が池の千葉道場の最大のスターは、あの「赤胴鈴之助」なのです。

ということで、今回の散歩は「お玉が池の千葉周作道場跡」を歩いてみました。
Sdsc00027 現在の場所は、JR秋葉原または都営新宿線岩本町下車、住所は岩本町2丁目、「右文尚武」という写真のような石碑だけが見つかりました。
お玉が池は当然影も形もありませんでしたが、お玉が池跡に立つ玉池稲荷があります。説明板によりますと「最初、桜が池と呼ばれていましたが、ほとりにあった茶店のお玉と言う女性が身を投げたとの古事からお玉が池と呼ばれるようになった。江戸のはじめは、不忍池よりも大きかったと言われておりますが、徐々に埋め立てられ姿を消したと言う」とあります。
Sdsc00022 身投げできたんだから、相当広くて深い池だったんでしょうね。
往時を偲ぶよすがはほとんどないのでありますが、玄武館跡の石碑を前に、清河八郎を思い、なつかしの赤胴鈴之助を思う時、感慨無量でありました。横車押之進が鈴之助を待ち伏せした路地に私が立っているかも知れなかったからであります。

一方、京橋桶町の千葉道場には石碑らしきものは何も見つかりません。
場所の見当としては、東京駅八重洲口八重洲ブックセンターの裏あたりになるはずです。
こちらには伊東甲子太郎や坂本竜馬が通っていたはずであり、二人は時代がぶつかりますので、相当の確率で出会っているはずです。

Sdsc00026 桶町の千葉貞吉の長女は「さな子」といい、司馬遼太郎の「竜馬が行く」にも出てきますが、幼い頃から貞吉に剣を仕込まれ、免許皆伝の腕があると言われ、竜馬に勝ったことがあるとも伝えられている気丈で美しい女性であったようです。竜馬とは結婚を約束されていたようでありますが、ご存知のように、竜馬は京都でおりょうさんと結婚してしまいます(しかし、よく考えると、竜馬は気丈な女性ばかりを好きなんですねぇ)。
武内つなよし「赤胴鈴之助」によれば、お玉が池の千葉周作には吉永小百合演じるところの娘さゆりがいたようですので、千葉兄弟の両家ともに気丈で美人の娘がいたことになります。

千葉さな子の方は、竜馬暗殺後も独身を通し、晩年は華族学校(現学習院)の舎監を務めていたようです。
明治29年、58歳で亡くなっていますが、甲府市のさな子の墓石の裏には「坂本竜馬室」と刻まれているそうです。
こんなにも一途にほれてくれたさな子さんを裏切って、おりょうさんに走ってしまった竜馬の罪は万死に値すると思いますし、この一事だけを考えれば竜馬が暗殺されたのもやむをえなかったのかもしれません。

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実用洋食「七福」のプライド

私は、外食するときはいつも、インターネットのグルメサイトで事前に予習をして、ターゲットを決めてから、出かけるようにしております。はずれが少なく、店を探して見つけた時のちょっとした高揚感が楽しいからです。
とりわけ、お勧めサイトは、東京レストランガイド「askU.com」です。このサイトは、地域別でも検索できるし、料理別でも検索できます。さらに、自分が行ったレストランを、自由に評価して、書き込みもできるのであります。その結果を点数化して、順位付けまでしてくれますので、容易に人気レストランを探し出すことができます。
私は、洋食が比較的好きなもので、洋食の順位をいつも気にしているのですが、東京全体での洋食ベストテンの第5位に「七福」を見つけたときには、正直びっくり仰天しました。あの浅草アリゾナ・キッチン(第11位)、銀座煉瓦亭(第19位)、上野香味屋(第17位)など並み居る有名洋食レストランを蹴散らす人気レストランとして君臨している「七福」を見つけ出したときの感激は忘れられません。

あれはもうかれこれ三十数年前になるでしょうか、私がまだ苦学生だった頃(改めて考えると「苦学生」という言葉ももはや死語になってしまいましたねぇ)運送会社の配送のアルバイトでトラックの助手席に乗っていた頃にさかのぼります。相棒の運転手さんに連れて行かれたのが、この「七福」だったのです。
今考えますと、運送会社の運転手さんにとっては、食事は貴重な楽しみでありまして、彼らの口コミ情報はきわめて正確であり、彼らが行きつけのレストランといえば、「絶対当たり」に違いないのであります。
たとえば、880円のサービスランチでありますが、オムレツに鳥のから揚げ3つ、エビフライとカニコロッケは本物、これにウインナとキャベツ、そして味噌汁がつきます。まさしく肉体労働者仕様のボリュームたっぷりのランチが出てくるわけです。手を抜かない料理人の心意気が感じられる出来上がりです。

s-DSC00712 質素な店のたたずまいにふさわしい質素な店の看板がいみじくも表現している「実用洋食」の醍醐味が味わえます。
清洲橋通りをはさんだ向かい側には、その昔、日本社会党委員長の浅沼稲次郎が住んでいた同潤会アパートもつい先日、高層マンションに変貌してしまいました。したがって、写真でご覧いただけるように、孤高を保つその佇まいのりりしさだけを見ても感動を禁じえません。
店の看板もテーブルも椅子も三十数年前と少しも変わっていません。
あまりにもかわらなさすぎて、看板に書かれている電話番号もまだ局番が三桁のままなほどです。(蛇足ですが、東京地区の電話番号の局番は、14年前から既に4桁になっております)

「七福」の話をする以上、もうひとつ配膳係兼会計係のお姐さんの話をしないわけにはいきません。このお姐さんは、掛け値なしに3人分は働いていると思われます。すなわち、たったひとりですべての客の注文を全部頭の中に入れてしまいます。したがって、注文票は存在しません。オーダーの順番はもとよりとして、どんな複雑な注文も記憶しており、すべての客の会計金額も全部頭に入っており、清算もものすっごいスピードで処理する異能のお姐さんなのです。
宝来屋でのpigretさんのご指摘も踏まえまして、くだんの配膳係兼会計係のお姐さんと忙しそうで恐縮ではありましたが、ちょっとお話をしました。

私「このお店は、いつごろからあるのでしょうか?」
お姐さん「昭和42年オープンですから、う~ん・・・・30年?・・・」
とっても不思議なことですが、あんなに優秀で事務能力のあるお姉さんが、なんと「昭和42年が何年前か?」という問題で、思いっきりフリーズしてくれたのであります。
うれしかったなぁ~。

最後に、実用洋食「七福」の基本情報は下記のとおりです。
住所: 東京都江東区白河3-9-13 
電話: 03-3641-9312
最寄駅: 大江戸線 清澄白河

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宝来屋からの妄想(散歩のコツ)

今回は、私の趣味である都内長距離散歩がなぜそれほどおもしろいのかという問題につきまして、薀蓄を披露したいと思います。
散歩を面白くするためには、実はちょっとしたコツがあるのです。コツといいましても、それほど難しいことではありませんで、いわば「考えるクセ」とでも言うべきものなのであります。「考えるクセ」では、わかりにくいと思うのですが、要するに、自分が持っている潜在的な感性を最も鋭敏に研ぎ澄まして、想像力を極大化することが、コツなのであります。
余計わからなくなってしまったかもしれませんので、わかりやすく具体的な例を挙げて説明したいと思います。

s-DSC00710 たとえば西新宿の裏道を今日の散歩コースに選択するとします。
ブラブラ歩いていると、写真のような中華料理店がありました。店の名前は「宝来屋」といいます。
この中華料理店を一瞥したところで、問題の想像力(または妄想力ともいいます)を極大化するわけです。以下のように、際限のない疑問や興味がモリモリわきあがってきます。

●相当古そうで危なそうな建物だが、何年ぐらい経っているのだろうか?
●なぜ立て替えないのだろうか? 金がないのか? もうからないのか? 亭主がギャンブル好きで金がないのか? 道楽息子がいるのか? 欲がないのか?
●下が店舗で、上が住居? いやむしろ、全体が二階家のうち、一階の一部だけが店舗というべきだろう。してみると、住居部分は、想像以上に広そうだ。何人家族だろうか?
●金持ちか否かは別として、相当長くラーメン屋をやっているようだ。ということは、地元の固定客が多いということを意味する。ということは、「うまいはず!」ということになる。

ここで、中へ入ってみます。
カウンター席6席、テーブル席4人分、合計定員10人の店で、70歳ぐらいのじいさんと、60歳ぐらいのおばさんがカウンターの中にいる。
ここから、また妄想が始まります。

●じいさんは、かなりやせており、動作も超スロー。きっとそれほど遠くない過去に大病をした経験がありそう。
●ほとんど、おばさんが一人でラーメンを作っている。愛想はないが、手早く、料理の腕はよさそう。おそらく二人は、夫婦と思われる。住居の広さからして、子供は最低二人はいたが、今は独立しているのだろう。
●夫婦二人だけで暮らしていかれれば十分と考えており、建物を建て直そうという考えもない。したがって、不必要にもうけても仕様がないと思っているはず。
その結果、タンメンはたったの450円、味もかなりうまい!! したがって、結構客は多いという当然の連鎖となる。
●おばさんは(こういう店にありがちなように)愛想はないが、応対は機敏で要領を得ているので、頭がよさそうだ。したがって、子供たちにもそこそこの教育を与えた上で、独立させたのだろう。
子供たちは、時々夫婦を尋ねてきて、「そんなにラーメン屋で苦労してがんばることはない、お父さんも大病したことだし、ここらで引退したら・・・」などとやさしく声をかけるが、夫婦は「二人だけで食べる分はかせぐんだ。贅沢する気もない。お客さんが来てくれる限りは続ける。」と答えているに違いない。

妄想がここまでたどり着いたところで、タンメンを食い終わった。量も十分。味もよし。図らずも、偶然の散歩で、穴場を探し当てた満足感と満腹感で幸せな気持ちになる。
水を飲み、一息おいて元気よく「ごちそうさま!!」と言葉をかけて、財布を出す。おばさんが予想以上にテキパキと550円のおつりをくれる。これまた予想以上に若い声で「ありがとうございました」と聞こえた。まだまだ、ラーメン屋を続けられる甲斐性を感じさせる。
外に出たところで、おじさんとおばさんのこれまでの人生の哀歓とこれからの人生への気概を感じ、ささやかな感動を覚える。

かくのごとく、散歩でたまたま通りかかったラーメン屋に入り、タンメンを食い終わって外に出るまでのわずか30分ほどの間に、これだけの情報と幸せを感じることができるわけであります。

以上、「散歩のコツ」でありました。

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浅草の塔

asahisinbun42 はるか昔、私の学生時代の浅草にスペースタワー(宇宙塔)なる面妖なタワーが出現したことがあります。
下町っ子の私としては、一度上ってみなくてはと思っていたにもかかわらず、気がついたときには既に忽然と姿を消しておりました。あのスペースタワーなるものは、いったいどこにあって、どういう経緯をたどって消えてしまったのでありましょうか?
今回も rational fool の好奇心を発揮して調査してみました。

当時の朝日新聞によりますと、完成したのは、やはり私の花の浪人時代であった昭和42年12月14日、高さ110mのアルミニウム特殊鋼製の円柱(直径2.5m)のまわりにあるドーナツ型のエレベーターと展望台も兼ねた展望室が円柱を軸に自転しながら上昇する世界でも珍しい展望塔であったそうです。
ただし、建設途上から「近代的過ぎて寺の美観とそぐわない」と浅草寺側から反対の声が上がるなど、多難なスタートだったとされております。そして、わずかオープン5年後の石油ショック真っ最中の昭和48年には、早くも廃業しております。これでは私が乗るタイミングを失してしまったのもうなづけます。

s-DSC00677 問題は、このスペースタワーのあった場所なのですが、浅草寺の裏手の広場の片隅、現在歌舞伎発祥にちなんで、明治時代に劇聖と謳われた9代目市川団十郎の歌舞伎十八番「暫」の銅像があるところだったと思われます。

ところで、浅草というところは、どういうわけかこの類の塔が、昔からとっても好きな土地柄のようです。
942年の創建以来、何度も消失しては再建されてきた浅草寺の五重塔はもとよりといたしまして、
かつては、通称十二階と呼ばれた凌雲asakusa_ryounkakuが観光客をひきつける最大のスポットでありました。しかし、この十二階は、関東大震災(1923年)であえなく倒壊しています。
浅草っ子はよっぽどさびしかったんでしょうね、凌雲閣倒壊後わずか9年後の1932年、森下仁丹が東京進出に当たって建てた仁丹塔が出現します。仁丹塔は、1954年の再建で凌雲閣を模した外観となり、浅草名物となりますが、この塔も1986年には解体されてしまいます。
なお、余談ですが、この仁丹塔のまん前の雷おこしで私は学生時代に売り子のアルバイトをして正月を過ごした経験があります。
今、思い返しても、正月の雷おこしの売れ行きの殺人的なすさまじさは、驚くべきものでありました。

高層ビルが林立する現代では想像しにくいのですが、かくのごとく、庶民の町浅草にとって、歴史的に塔のイメージは必須のものであったようであります。
昭和30年代までの下町に住む庶民の暮らしを想像いたしまasakusa_jintanto すと、ようやく取れたたまの休みに浅草に出て、映画を見て、おいしいものを食べて、塔に登ってさえぎるもののない贅沢な視界で下界を見ることが、この上ない娯楽であったのでありましょう。

ちょっと、うらやましいような気もします・・・

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渋谷川はどこを流れる?

2005.7.2「31年ぶりに砂の器を見て」に対して頂戴したコメントで、とっぱさんや酢豆腐さんから厳しいご指摘を受けましたように、渋谷区には、昭和40年の住居表示変更までは「穏田」という地名が、歴然と存在しておりました。今の神宮前のあたりで、原宿村に隣接していたようです。
これも酢豆腐さんからご懇篤なご指摘を戴いておりますように、葛飾北斎の「富嶽三十六景」には「穏田の水車」という版画があります。ご紹介したリンクをたどってこの版画を是非見て頂きたいのですが、江戸時代の穏田は、村の中央を流れる渋谷川に水車が架けられ、のどかな田園地帯であったことがうかがわれます。北斎の版画で見る限り、かなり豊かな流量だったようです。
ということで、今回は、渋谷川に注目してみます。

まず、現在の渋谷川の位置について確認したいと思います。
今、私たちが現実に流れる渋谷川を実際に見ることができるのは、渋谷駅の南、稲荷橋の下流に限られてしまいます。明治通りと山手線に挟まれた狭い場所を流量も少なく、チョロチョロと流れているに過ぎません。

一方、渋谷駅から北側は、その存在が外からは確認できません。
どうやら、渋谷駅の北側(すなわち上流)の渋谷川は、全てが暗渠であるようです。暗渠であるからには、その流れる位置は、あくまで想像するしかないのですが、どうやら東急インの裏、ションベン横町あたりに始まって、宮下公園沿いを遡り、ウネウネと覆蓋された緑道公園をさらに遡り、北へ北へと進んで・・・
渋谷駅から延々暗渠の下を長距離流れ続けるこの薄幸の渋谷川は、原宿の周辺で昔の穏田村を通り過ぎ、最後は水源とされる地域で止まります。さてさて皆さん、この水源は、一体どこだと思いますか?
何と何と!! 新宿御苑の中らしいのです! これが渋谷川のまず最初のサプライズです。(注:この部分は「渋谷川・古川」を参照しました。)

渋谷川関連のおもしろサプライズ情報をさらに二つご紹介します。

ひとつは、渋谷駅から上流は暗渠、下流は稲荷橋から南を辛うじてチロチロ流れる渋谷川は、そもそもその真ん中の渋谷駅の部分ではどこを流れているのか?という問題です。
s-DSC00667 これが、なんと!現在、渋谷駅と一体化して建っている東急百貨店東横店・・・ 東館、西館、南館と分かれるその東横店のうち、最初(昭和8年)に建てられた東館の地下を通っているのだそうです。
このため、なんと!東横店東館だけは、地下階がないのです!
そう言えば、そうだったですよネ!東館は、渋谷川をふさぎまたぐ形で建てられているのです。
(注:この部分は「東京発展裏話#5川の上に建てたデパート」を参照しました。)

s-DSC00670 次に、明治時代の渋谷川を写生した絵(柴田富陽:作)をご覧下さい。いずれも、今の渋谷駅周辺に相当する場所を描いたものです。
この絵は、今は暗渠の下で全く見えなくなっている渋谷川を、現在のションベン横町あたりから宮下公園方向を望んだ景観であります。堂々たる水量であり、水車がいくつも架かって動いていたようです。

渋谷駅は、日本鉄道株式会社が開設した品川~赤羽間の品川線の開通に伴い、明治18年、誕生しました。
s-DSC00669 渋谷駅が開業しても、駅周辺には絵に描かれているように、しばらくのどかな風景が広がっていたようです。
駅のすぐ近くを流れる渋谷川に架かる宮益橋のたもと(現在の渋谷駅ガード下)には、この絵のように水車が回っていたようです。
渋谷駅の東側に当時あった公立渋谷第一小学校の維持費の一部にこの水車の利益金が活用されたと伝えられています。おもしろい話です。

なお、この公立渋谷第一小学校は現在の区立渋谷小学校でありまして、奇しくも私の母親の出身校でもあります。

注:この記事は、「白根記念渋谷区郷土博物館・文学館」における開館記念特別展「ハチ公のみた渋谷」展及び案内パンフを参考にしました。

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清洲橋は登れるか?(隅田川名橋シリーズ)

2005.2.5「永代橋を登る(隅田川名橋シリーズ)」で既に白状しましたように、私は30数年前、まだ20歳代の独身の若者でありました頃に、一度、永代橋のアーチ部分(写真参照)を登ったことがあります。
s-DSC00562_r1 誰でも若いうちはそうだと思いますが、当時の私は怖いもの知らずでありまして(何度も言いますが、今は怖いものだらけです。)、深夜のアーチ頂上での達成感は、このうえなく爽快なものでありました。

というわけで、恐れを知らぬ若者としては、隅田川名橋連続踏破(踏破と爆破では大違いです。念のため・・)を狙うのは、至極当然の成り行きだったと思われます。そして、名誉ある永代橋の次の座ということになりますと、人気・実力共に文句なしに「清洲橋」ということになります。

清洲橋・・・・関東大震災の復興計画に基づき、昭和3年に架けられて以来77年になります。長さ186m、幅22m、男性的で重量感のある永代橋とは対照的に、女性的で優美な吊り橋であります。深川区清住町と日本橋区中洲町を結んだところから、清洲橋と名付けられました。独特の優美なアーチラインは、ドイツケルン市のライン川に架かる吊り橋をモデルとしたと言われております。

ということで、30年前の私は、間違いなく一度は清洲橋に狙いをつけたのでありますが、どういうわけかトライしませんでした。
改めてしらふで永代橋の高さを見つめて自らのあほらしさにあきれたのか? それとも、単純に怖じ気づいたのか? 判然としないまま、30年が経過してしまったのですが、先日、くだんの清洲橋の下を通りかかる機会がありまして、改めてしみじみ見上げてようやくわかりました。
s-DSC00657 要するに、ご覧のようにアーチの角度が急すぎることに加えて、永代橋のような滑り止めの如きリベットも打たれていないため、滑り落ちる危険が相当にあるのです。
これでは、とても無理です。ドンキホーテもびっくりの無理な企てであることが、容易にわかります。
しかし、30年前の私が、この程度の賢明な判断を何とか成し得たギリギリの分別を持ち合わせていたことの僥倖に感謝しなければならないと思います。

話は変わりますが、隅田川の名橋は、それぞれ印象深い唄に歌われている橋が少なからずあります。
例えば、両国橋は由紀さおり歌うところのご存じ「両国橋」があります。♪両国橋はいけ~ないわぁ~~♪というあれです。
吾妻橋には、香西かおりの「雨の吾妻橋」があります。♪小雨に煙った吾妻橋、あなたが迎えに来てくれるなら、傘に隠れて渡りたい♪
面影橋
もあの汚い心斎橋ですらも、唄に歌われているにもかかわらず(時は昭和40年、三田明と吉永小百合という黄金コンビによるデュエット「若い二人の心斎橋」です。これは名曲です。当然、作曲吉田正、作詞佐伯孝夫です。)、これほどまでに美しい清洲橋は何故歌われないのでしょうか?
不思議です・・・

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帽子のおばさん

前々回の「リュックのおじさん」の記事は、私としては十分に構想を練り、構成も工夫して書いたつもりですが、5人の方々から熱心なコメントを頂戴しました。改めまして、感謝申し上げます。
「リュックのおじさん」のように、受けるだろうと期待しながら書いた記事が、当初のこちらの予想通りの読み手の反応を引き出すことは、ほとんどあり得ないこととあきらめていただけに、とてもうれしかったです。
「リュックのおじさん」では、とりわけ「カップルで手をつなぎながら散歩するべからず」とあえて感情的に表現した部分に、圧倒的に多数の方から、ビビッドな反応が返ってきましたが、これははっきり言って当方の企みどうりでありまして、ニンマリする思いです。

これらの反応のうち、コメントにはありませんでしたが、直接お言葉を戴いた方のご意見の中に「自分がカップルで散歩できないので、手つなぎカップルに嫉妬して当たっているように感じられる」というご忠告が、不本意ながら多くありました。
声を大にして申し上げますが、これは違います。なぜなら、代案として私がお示しした「ポケット方式」すなわち、つないだ手をコートのポケットに押し込んで外から見えないようにする方法は、何を隠そう私が発明したオリジナルなんですからね・・・

さて、そんなことはどうでもよくて、今回のテーマは、「散歩するおばさんは、なぜか数人の集団で、それもほぼもれなく帽子をかぶっている」という前々回ティンツウちゃんから頂いたコメントの問題提起について、真剣に考えてみたいと思います。

s-DSC00638 まず、「なぜ複数か?」という問題ですが、これは簡単ですね。
おじさんは一人で歩いているとむしろ哀愁が感じられるくらいですが(そんなことないか?)、おばさんは何か思いっきり寂しそうに見えてしまうんですよね。
これも、なぜか若いお姉さんのうちは、女の一人旅っぽくて、良い感じなんですけれどもねぇ。
♪京都大原三千院、恋に疲れた女が一人・・・♪ってか。

とりわけ、おばさん達にとって一番困るのが散歩の途中s-DSC00640 での食事だろうと思われます。
おじさん達の場合ですと、「吉野家」でも「松家」でもカレーの「壱番屋」でも、さっと入ってさっと掻き込めばいいのですが、おばさんの場合、そうもいかないのかもしれません。

次に、ほぼもれなくかぶっている帽子の件ですが、これも簡単で、ただただ日焼け防止のためなんでしょう。おじさん達は、あまり日焼けは苦になりませんからね。
私もよく知らないのですが、日焼けが気にならないおばさs-DSC00643 んは、この世の中にほとんどいらっしゃらないかも知れません。おじさん達は、むしろ紫外線に当たれて良かったと考える一方、おばさん達はやはりシミ・ソバカスが大敵なのでありましょう。

おじさんは、おばさんに比べて、総じて不利だったり損だったりする事柄が、圧倒的に多いのでありますが、こと「散歩の自由度」についてだけは、おじさんの方が高い自由度を持っていることは、間違いなさそうです。
それでも、総合的には、勝負にならないほど、おばさん達が有利であることは、議論の余地がないと思うのですが・・・

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リュックのおじさん

私は、散歩が大好きです。
散歩と言っても、ちょっと遠方で、歩く距離もかなり長距離の場合が多々あります。都内をブラブラ散歩しながら、すぐに容易に気がつくことがあります。
すなわち、やけに私と同じようなおじさんが目に付くのです。それもリュックを担いでいる場合が多いのです。

散歩を趣味にするためには、ある程度の人生経験が必要なことは、議論の余地のないことだと思います。自分自身、若い時には見過ごしていた光景が、今この年齢になってはじめて、汲めども尽きぬ興味の対象となってきたものが無数にあります。
例えば、今日行ってきたばかりの散歩コースを例に取ってみますと、文京区千駄木の団子坂を上り、藪下通りの森鴎外記念本郷図書館すなわち観潮楼跡に行ってみたのですが、このコースからして私としては、若い頃には感じられなかった胸がわくわくするような興奮を覚えます。
まず、団子坂をエッチラオッチラ上りながら、江戸川乱歩の「D坂殺人事件」を思い出さずにはいられません。あれは長屋の話だったよな。当時としては珍しいサド・マソ゜の話だったよな・・・などと考えながら団子坂を上ります。
団子坂を登り切ると、藪下通りに入り、すぐ観潮楼、すなわち森鴎外の住居跡に着きます。(信じられないことですが、比較的高台にあるこの観潮楼から、東京湾の海が見えたからこの名が付いたそうであります。)
s-DSC00627
雑誌「めざまし草」で、新作批評「三人冗語」を担当していた三人(森鴎外・幸田露伴・斉藤緑雨)が勢揃いしたあまりにも有名な写真を思い出さずには、いられません。信じられないことではありますが、この写真で森鴎外が腰掛けている石が、「三人冗語の石」として、今、この観潮楼跡である本郷図書館の中庭に残っているのであります。あぁ、Incredible!
ちなみに、この三人冗語で、鴎外が樋口一葉の「たけくらべ」を激賞したことは有名であります。ところで、一葉は、この写真の右端斉藤緑雨に大層興味を持っていたようですし(緑雨も「たけくらべ」を絶賛しています)、一方で恩師半井桃水をも終生あこがれていたとも言われておりまして、五千円札のすまし顔からは推し量れない、多情の女性だったような気もします。

ちょっと脱線しましたので、話を元に戻します。
要するに、若い時と同じ坂を上っても、「三人冗語の石」のような同じ何の変哲のない石を見ても、知識も経験も少なかった若い時には思いも及ばなかったような感動や興奮の機会が、無数にあるのであります。
s-DSC00631 だからこそ、写真でお示しするように、散歩するおじさんがどうやら増えてきたのだと思います。
しかし、これほど散歩するおじさんが多くなり始めたのは、つい最近のような気もします。

私は、「パリ9日間フリーパック」を利用して、9日間ひたすらパリを歩き倒した経験がありますが、わざわざパリに行くまでもなく、電車で数十分揺られるだけの都内で、パリの散歩をはるかに凌駕する感動が得られるのですから、病みつきになるはずです。
s-DSC00632 あるいは、「アド街ック天国」のような人気TV番組がこのブームを後押ししているのかも知れません。
このおじさん達が、ご覧のように、どういうわけか申し合わせたように、リュックを担いでいる場合が多いのであります。
これが「散歩するおじさん」というせっかくの粋で哀愁のあるモチーフに、ある種の形容しがたい・・・人によっては「ダサイ!」と切り捨ててしまうような致命的な雰囲気を与えてしまうのであります。
かく言う私も夏の散歩では、デジカメ・財布・iPod・ガイドs-DSC00633 ブック・携帯電話などといった「散歩七つ道具」を衣服のポケットには収納しきれなくなるため、リュックもどきのアイテムのお世話にならざるを得なくなるのであります。

最後に、おじさんの散歩のルールとして、「一人で孤独に歩かなければならない」ということを、声を大にして主張させて頂きます。
いやしくも、「おじさんの散歩」というものは、物思う崇高な行為であり、同伴者(とりわけ異性の)は邪魔であり、自由なコース選択を妨害する存在であるからでありまs-DSC00634 す。
にもかかわらず、(配偶者か恋人か、定かではありませんが)女性と一緒に散歩しているおじさんをしばしば見かけます。あまつさえ、その女性と白昼堂々手をつなぎながら、公道を歩いているカップルさえ見かける始末なのであります。
全く、おじさんの散歩道を無視した許し難い行為だと言わねばなりません。
私は、こうしたカップルには思わずツカツカと近づいていって、頭をはり倒したくなるような衝動さえ感じてしまいまs-DSC00635 す。
やむを得ず手をつなぎたくなったら(気持ちはわかりますので、私は物わかりが良いのです)、しっかりとつないだ手をコートのポケットに深く突っ込んで、他人には見せない配慮が必要だと思います(これは夏には不可能ですが・・・)。
そのようにカップルとしては、当然の常識を身につけているからこそ、「おじさん」と尊称されるわけでありまして、そんなことすらわきまえない、物を知らないおっさん達には、もはや散歩する資格などないのであります。

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洲崎・鳩の街 追加情報

「洲崎パラダイス」「鳩の街通り商店街」と図らずも戦後の赤線地帯散策コースが続き、恐縮至極でございます。しかし、その後、酢豆腐さんのご懇篤なる調査結果にすっかり触発されてしまいまして、我ながら物好きと思いながらも、近くの図書館に足を運び、小生も調べてみましたところ、どんな世界にも学問的興味を持って頭の下がるような努力をされている方がいらっしゃるものなんですね・・・(ま、これをオタクとも言いますが)木村聡さんというこの道の第一人者の方の「赤線跡を歩く」(自由国民社)という絶好のテキストを発見いたしました。今回は、その本の中から、これまでご紹介できなかった洲崎・鳩の街関連の興味深い追加情報をほとんど受け売りでご紹介したいと思います。

<洲崎パラダイス関連追加情報>
現在6車線の大通りに面して、「ホテル東陽」という部屋数121室、一泊5000円で泊まれる格安大規模ビジネスホテルの威容に出会います。このホテルは、都心から至近にありながら、格安で泊まれるため、いわば外国人のカニ族らしき若者が多く宿泊することでも有名ですが、このホテル東陽の存在する位置に、当時、洲崎パラダイス内でも有数の大遊郭「本金楼」があったそうであります。
また、かつてはこの6車線道路の突き当たり(おそらく現在の南開橋のあたり)は海で、高いコンクリートの防波堤があったそうです。
そもそも洲崎パラダイスとは、根津にあった遊郭が、明治21年、東京湾の埋め立て地に移転して形成されたもので、まるで長崎の出島のように海に突き出た廓だけの街だったようです。大正半ばの全盛期には、業者数300軒を優に超えていたとされています。戦時中は、一時、軍需工場の寮として接収され、やがて空襲で全焼。戦後は、東側の半分だけが、指定地となり、100軒余のカフェがあったそうで、そのうちの3軒を前回紹介したことになります。どうりで西側には全く見つからなかった理由がわかりました。

また、酢豆腐さんのコメントに出てくる川嶋雄三監督の「洲崎パラダイス・赤信号」(’56日活)には、洲崎遊郭の情景は、ほとんど登場せず、全編パラダイス入口近くの一杯飲み屋を中心に人間ドラマが展開します。これは、川嶋雄三自身、洲崎パラダイスの中を後日続編として撮るつもりだったためのようだと、木村聡氏は推測しています。もし、撮られていれば、パラダイス街の描写も当然あったはずなのですが、残念なことに’63の川嶋監督の急逝により不可能になったわけであります。

<鳩の街関連追加情報>
一方、「鳩の街」については、驚いたことに、戦後登場した紅灯街の中で最高の人気を集めたばかりでなく、社会現象にまでなった新興のカフェー街だったと伝えられています。人気の理由は、アプレ(戦後)派の素人やせいぜいセミプロまでの女性が多かったとされ、それがマスコミにも取り上げられ、カストリ雑誌などにも喧伝された結果、多くの客を集めることになったようです。
昭和20年代後半には、それほど広くない指定地に108軒、従業婦300人の女性がひしめいていたようです。

これより早く、東武線玉の井駅(現東向島駅)東側の田んぼを埋め立てた低湿地の土地に、関東大震災後道路よりも早くめいめいが勝手に家を建てたため、入り組んだ迷路のような路地が大私娼街を形成したのが、玉の井です。このため、玉の井(鳩の街も同様ですが)は、洲崎パラダイスのような整然と区割りされたそれまでの遊郭と異なり、独特の個性を備える結果となりました。
この玉の井は、昭和20年3月9日夜の東京大空襲で全焼し、当時の487軒、1200人の娼婦が悲惨にも焼け出されました。
戦後、玉の井は、やや遅れて昭和21年1月いろは通りから北側の焼け残った住宅を利用して再開したものの、鳩の街の人気には、及ばなかったようです。

なお、これも酢豆腐さんからコメント欄でご紹介のあった、鳩の街を舞台にした久松静児監督の「渡り鳥いつ帰る」(’55東宝)についてですが、映画の中で娼婦が「このごろの鳩の街は、昔の玉の井なんかと違って民主化されてるってよ」などという台詞を言っているように、想像したほどの悲惨さや侘びしさは姿を消していたのかも知れません。
また、娼婦役の淡路恵子のアプレゲールぶりがセクシーで素晴らしかったと伝えられております。このほか、高峰秀子、久慈あさみ、桂木洋子に加えて、娼婦上がりの流しの歌手にデビュー間もない岡田茉莉子という豪華キャストであります。
なお、この映画は、永井荷風原作で初の映画化された記念すべき作品なのだそうであります。

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洲崎パラダイス

前回、旧赤線地帯の「鳩の街通り商店街」を取り上げましたところ、予想外に大きな反響を戴きました。とりわけ、酢豆腐さんからはあふれる教養の一端を惜しげもなく披瀝して頂き、怒濤のコメント5連発を頂戴いたしました。ここに、伏して心から感謝申し上げます。酢豆腐さんのコメントをまだお読みでない読者の方は、是非先週の記事「鳩の街通り商店街」の記事の一番下コメント欄をクリックして頂くことを心からお薦めいたします。
なにしろ、私の記事よりはるかにおもしろい内容豊富な充実したコメントになっております。とりわけ、旧色町がなぜ全国的に鳩と連想されるのかという命題については、極めて興味深い学術的な議論が展開されております。

さて、その酢豆腐さんから「吉原、品川、新宿、千住、板橋というような江戸期以来の遊び場とは異なり、こちらはいわば新開地。昔の農道をそのまま街路にしたため、道は狭く、曲がりくねっております。(中略)ここの特長は、何と言っても安いことでしょう。当時、お金のない、若い労働者やサラリーマンが遊べるところといえば、ここ「玉の井」か「州崎パラダイス」くらいしかなかったんですから」と指摘されて、さすがに鈍い私も卒然と気がつきました。
玉の井とか鳩の街とかそんなに遠くに行くまでもなく、我が下町には「洲崎パラダイス」という全国に鳴り響いた色町があるではありませんか!私が夜、酩酊して帰る時は、タクシーに乗る場合があります。そんな時私は「運転手さん!い~い、この道まっすぐ行ってね、洲崎の交差点を左に曲がったらすぐだから、そこで起こして!」などと言って後は運転手さん任せという事が多いのです。そのまさに、「洲崎の交差点」こそが、洲崎パラダイスの入口だったということが、今回改めて調べてみて判明したのです。我が家のマンションの前には、南北方向に大門通りと称される道路がありますが、この道路を我が家から南に徒歩わずか15分で、もうそこはかつての洲崎パラダイスの入口に当たる洲崎橋に到着してしまうのです。
ちなみに、この大門通りの名前の由来は、洲崎パラダイスの大門と、吉原大門をつなぐ道だからだと伝えられております。
私が初めて洲崎パラダイスに注目したのは、昭和47年熊井啓監督の名作「忍ぶ川(主演:加藤剛、栗原小巻)」を見た時だったと思います。小巻演じるヒロイン志乃は、この洲崎パラダイス界隈で生まれ育った薄幸の女性であり、洲崎から木場のなつかしい風景がふんだんに見れます。

2車線の大門通りが、洲崎橋から南では6車線に広がり、この道路の東西両側に洲崎パラダイスが広がっていたと伝えられておりますが、この東陽1丁目一帯を一時間半ほどかけてつぶさに歩き回りまして、当時の遊郭とおぼしき面影を残していると思われる建物を東側にやっと3軒だけ発見することが出来ました。

前回の鳩の街では、道路が狭くじめじめした裏町という風情でしたが、洲崎の場合は予想に反して、メインストリートの大門通りが6車線もあることをはじめ、遊郭が並んでいたと思われる通りもかなり広く、鳩の街とは雰囲気が著しく異なり、開放的でカラッとした感じがします。では、次にその3軒を順番にご紹介します。

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1軒目は、1階部分が八百屋さんで、2階部分のバルコニーや丸屋根、原色の柱にかつての遊郭の名残を感じさせます。しかし、老朽化がかなり激しいのが心配です。

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2軒目は、最も保存が良く、壁にかつての名遊郭「大賀」の文字がしっかりと残っております。しかし、1階が日本共産党の区議の事務所になっているのが何とも不思議です。

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最後が、色タイルの壁と原色の柱、バルコニーと小さな窓など最も当時の遊郭建築の特徴を伝えていると思われる建物です。どうやら、現在は一般の市井の人の住居のようで、表に咲き始めた桜が印象的です。

以上3軒、大賀楼の保存状態は相当良さそうでしたが、他の2軒はあと5年持つかどうか?
ブログ「安野智彦の東京いかないとこ百景」によりますと、最盛期には現在6車線の大門通りも人で埋め尽くされたと言われております。
今は甘酸っぱいなつかしさと郷愁、情緒すら伺わせるものがありますが、実際は、そんなきれい事ではなく、女性を食い物にするやくざのヒモ、当時の質の悪い覚醒剤ヒロポン中毒、蔓延する性病、しつこいポン引き等々、貧困がもたらした不快で悲惨な人間模様が展開されていたに違いありません。

一方、洲崎パラダイス西側の西洲崎橋をわたった門前仲町界隈は、かつて材木商のお大尽が豪遊した、辰巳芸者で有名な三業地が連担しており、洲崎から門前仲町の一帯は、どの所得階層でもどこかで遊べる公平な総合歓楽地帯だったのかもしれません。(そう言えば、この地の町名は現在東陽1丁目ですが、私の小学生時代まで残っていた旧町名は、「洲崎弁天町」と申します。いい名前だったよなぁ~。弁天ですよ!弁天!なんでなくしちゃったんだよ、江東区役所!)

さてさて、小ぎれいでのっぺらぼうな新興住宅地にお住まいの諸嬢諸兄の皆様!
我が愛する下町の我がマンションは、東側の窓からは洲崎パラダイスに歩いて15分で到達する大門通りがとおり、西側の窓からは現在大好評公演中の騎馬オペラジンガロの木場公園特設会場の大テントが見えます。
何と文化的な環境でありましょうや!しみじみ下町に住む幸福を感じますねぇ~・・・

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鳩の街通り商店街

今回ご紹介したいのは、墨田区の下町にある鳩の街通り商店街です。
「な~んだ、商店街の紹介か?」と思われる方も多いと思われますが、この商店街は普通の商店街ではないのです。

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ご覧の商店街の入口を見ただけではうかがい知れませんが、実はこの商店街は、昭和33年の売春防止法施行により廃止されるまでは、いわゆるひとつの赤線地帯だったのであります。
そもそも「赤線とは何ぞや?」という問題についてでありますが、今の若い人たちはご存じないと思いますが・・・という今のおじさん達も実はほとんど知らないのです(何しろ47年前になくなってしまったのですから)。今のおじさん達が、はるか昔の若い頃、年寄り達から聞いた記憶がかすかに残っているだけであります。
要するに、地域を指定して(地図上、赤い線で囲われていたことが語源のようであります)公認された街娼による売春地帯を指すようです。「ようです」というのは、あまりに昔となってしまったため、無敵のgoogle検索でも、まともな定義は見つけられないからです。

さて、そこで鳩の街通りですが、この赤線はロケーションの良さから、永井荷風も姿を現したと伝えられておりますし、何よりも昭和26年吉行淳之介が、「原色の街」という小説の舞台として、娼婦達の生活を活写しております。(吉行はこの作品で芥川賞候補となり、3年後、「驟雨」で見事芥川賞を受賞しています)。吉行はこの地を「隅田川東北の街」と呼んでいて、あえて特定はさせていません。

最寄り駅は、東武伊勢崎線東向島になるでしょうか・・・場所の見当としては、宮部みゆきを輩出した都立墨田川高校がある地蔵坂通りと、王貞治選手を輩出した隅田公園少年野球場のちょうど真ん中あたりの長さ200mもないほんの小さな商店街です。もっと言うと、墨提通りと水戸街道を南北に結ぶ商店街のうちのひとつです。

一見、落ち着いた雰囲気の気易い下町らしい普通の商店街に見えますが、ゆっくり歩きながら感受性を研ぎ澄まして観察しますと、昔赤線だったかも知れないと思わせるいくつかのかすかなよすがが感じられます。

まず第一に、道幅が異常に狭いのです。おそらく3m強だと思われます。消防車は全く入れないと思います。

第二に、吉行淳之介の「原色の街」は特殊飲食店ヴィーナスを主舞台としておりますが、現在の商店街の中にも「喫茶ヴィーナス」と言う名の決して新しくはない古色蒼然とした下町風の喫茶店があります。おそらくくだんの特殊飲食店のゆかりの店と思わせるものがあります。

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第三に、上記写真でご紹介するように、とても旅館とは思えない外観の「旅館」が商店街の中に一軒だけあります。入口の引き戸の左側の柱に、ほとんど見落としそうなほど小さくて白い楕円形の表示板があり、ここに思いっきり小さな手書きの字で「旅館」と書いてあります。
この旅館は、一体どういうお客さんを対象に商売しているのでありましょうか?そもそもこんな狭い商店街の中で、商売として成立するものなのでありましょうや否や?興味は尽きません。

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最後に、こんな狭い商店街の真ん真ん中に、商店街中最も大きな建物として存在しているのが、ご覧の質屋さんです。この質屋さんは、通りを挟んで向かい側にさらに広い駐車場を所有しておりますので、商店街一の大変な資産であります。大体、質屋がドデーンと一等地を占領している商店街なんてそれだけで不思議ですよね。おそらく、赤線時代には、娼婦達の生活を裏で支えていたのかも知れないと想像させるものが十分あります。
そうしてみると、この質屋の一角にある土蔵は、無数の娼婦達の涙のドラマを飲み込んできたのかも知れません。

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浅草ウラ観光案内:警視庁菊屋橋署

前回の浅草東本願寺の参道を抜けて、浅草通りに出て、田原町方面に2ブロックほど歩くと、何の特徴もないごく普通の業務ビル然としたグレーのビルが、角に立っています。

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うかうかしていると見逃してしまうほどの小さめの表示を読むと、「警視庁菊屋橋庁舎」と読めました。
この建物こそ、我が国唯一の女性専用の単独留置場として有名だったあの菊屋橋留置場を擁する菊屋橋署なのであります。確か昔は菊屋橋分室と呼ばれていたはずですので、いつの間にか組織上格上げになったのかも知れません。定員は、堂々102名の本部留置場と伝えられております。
現在では女性専用単独留置場は、愛知県警名北留置場とこの3月に完成したばかりの静岡県警富士留置場を加えて、全国で3カ所となったそうです。

その昔、大島渚の「愛のコリーダ」のモデルとなったあの阿部定が拘置されていたこともあると言われております。また、高村薫の「レディ・ジョーカー」にも出てまいります。
しかし、何と言っても、菊屋橋署を全国的に有名にしたのは、「菊屋橋101号」と通称されるお姉さんのおかげです。

時はまさに70年安保前夜、全国で相次ぐ学園闘争や争乱事件のさなか、ある全共闘の女性闘士が文京区の元富士警察署に逮捕されました。しかし、彼女は氏名はおろか住所など一切告げず、取調官も感心するほどの見事な完全黙秘(専門用語では完黙と言う)を貫徹し続けました。当局は、仕方なくこの女性を留置先でつけられた留置番号である「菊屋橋101号」と名付けて起訴しました。
この菊屋橋が、本日のテーマの警視庁菊屋橋庁舎なのであります。完黙をすると、最低23日は留置されるそうですが、私の記憶では、この「菊屋橋101号」のお姉さんの完黙期間は1年を超えたという伝説があります。

当時、マスコミ・週刊誌では、この女性闘士を巡ってスクープ合戦が展開され、まだ創刊間もない夕刊フジが、逮捕時に警察で撮影された「菊屋橋101号」さんの写真を手に入れ、デモ写真と合成して、あたかもデモ現場で彼女を撮影したかの如く装って報道するという人権侵害事件を起こしたことでも有名です。

この頃は、他にも東大のゲバルト・ローザをはじめ、どういうわけか筋金入りの無敵の女性闘士が陸続と輩出された時代でもありました。あの頃のお姉さん達は、今頃どうしているんでしょうか?
どなたか消息をご存じでしたら、お知らせ下さい。

さて、3回にわたって続けてきた「浅草ウラ観光案内シリーズ」ですが、改めて振り返ってみますと、大林宣彦監督の「異人たちの夏」を思い出させる焼きそば「花家」、小津安二郎映画の雰囲気を思い出させる「東本願寺」、そして今回の「警視庁菊屋橋庁舎」はご存じ梶芽衣子の大ヒットシリーズ「女囚さそり701号」を彷彿とさせますよね。
要するに、浅草は、表からでも裏からでも楽しめるし、浅草の裏道を歩くだけでも、日本映画史を追体験できるという、奇跡の街だということです。

♪花よきれいとおだてられ、咲いてみせればすぐ散らされる♪
♪バカな、バカな、バカな女の・・・恨み~~節♪
あ~あ、梶芽衣子、かっこよかったなぁ~!

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浅草ウラ観光案内:東本願寺

浅草に浅草寺があるのは当たり前ですが、東本願寺もあることはご存じでしたでしょうか?
東本願寺は、本院が京都市下京区烏丸通りにある浄土真宗大谷派の総本山であります。浄土真宗は、鎌倉時代に親鸞上人を宗祖とし、東本願寺は12世教如上人によって開創されたと言われております。
親鸞が、南無阿弥陀仏と念仏を唱えることによって、凡夫悪人であっても、往生できると説いた例のあの「悪人正機説」の浄土真宗であります。
その後、五木寛之がごひいきの第8代蓮如によって、戦国時代に飛躍的な発展を見せ、本家の浄土宗を凌ぐに至ったようです。

強大な力を持つに至った真宗の門徒達は、戦国大名とも戦う力を持ち、織田信長を相手に石山合戦をしたほどなのであります。
江戸時代に入って、真宗教団の強大化を恐れた徳川家康が、教如上人に土地を寄進することによって、本願寺を東西に分裂させましたが、その教如上人が開いたお寺が東本願寺なのであります。
一方、京都の西本願寺の方は、幕末におなじみの新選組がさんざんご迷惑をおかけしたあの西本願寺なのであります。

浅草の東本願寺は、この東本願寺の末刹として、初めは神田の淡路町にありましたが、その後神田明神下に移り、1657年の明暦の大火後、現在の浅草に移ったわけです。
俗に「東門跡」または「浅草門跡」ともいい、その他「東京本願寺」「浅草東本願寺」とも呼ばれ、葛飾北斎のかの「富嶽三十六景」では「東都浅草本願寺」という題名の作品として残されているほどの名刹です。
明暦の大火では全焼したのですが、あの昭和20年3月9日の東京大空襲では、一面焼け野原となり果てた浅草一帯で唯一この浅草東本願寺だけが、奇跡的に無傷で残り、たくさんの命を救ったと言われております。(当時の貴重な写真はこちらからご覧下さい)

さて、私が今回ご紹介したかったのは、実はこうした東本願寺の来歴などではありません。
この浅草東本願寺の正門の前の両側にささやかに広がる参道の佇まいについてなのであります。
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参道と言ってもご覧のようにたいした長さではなく、浅草通りに出るまでのたかだか長さ100m程度のものであります。この参道の両側の家並みの様子が、感動ものなのであります。
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すなわち、前回の焼きそば「花家」は、映画「異人たちの夏」のテイストを彷彿とさせましたが、今回の東本願寺参道はまるで小津安二郎の世界を思い起こさせます。
ご覧の二枚の写真で雰囲気を正確にお伝えできるか否か自信はありませんが、周辺の浅草特有の猥雑な喧噪の中で、この東本願寺正門前のささやかな参道だけが、別世界然として、孤高の姿でりりしく小津の世界を今に伝えている風情なのであります。

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浅草ウラ観光案内:焼きそば「花家」

「東京の観光スポットで、どこへ行きたいですか?」とリュックを背負った外国人観光客に問えば、相当の高確率で名前を挙げられるのが、浅草であります。事ほど左様に、国際観光都市東京としては、浅草は世界的にネームバリューのある貴重な観光資源なのであります。
その浅草観光の定番と言えば、雷門・浅草寺・仲見世・六区商店街そして合羽橋道具街と言ったところでありましょうが、ここではそうした場所をご紹介するつもりはありません。
私が是非ご案内したいのは、どの観光案内書にも出ていないような浅草の特選ウラ名所なのであります。

実は、私は下町深川で生まれ育ったのでありますが、私の父親が日曜日に子供に対して施す唯一の家庭サービスのまねごとらしきものは、ほとんど判で押したように、比較的近い浅草に連れて行き、六区で映画を見(私の小学校時代までは立ち見はザラでした)、おいしいものを食べるという見事なワンパターンコースでありました。
おかげで私は浅草の裏通りから路地裏に至るまで(むしろ路地裏の方が)詳しいのです。かつての大林宣彦監督「異人たちの夏」のテイストは、こうした私の生育環境にドンピシャの感性でありまして、すっかりはまってしまいました。

ということで、今回から3回にわたって浅草ウラ観光案内シリーズとして、どの案内書にも載っていないはずのちょっとおもしろい場所をご紹介していきます。

まず、第一回目は、焼きそば「花家」です。
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場所は営団地下鉄銀座線田原町駅下車、地下から出口の階段を上ると、真ん前にあるお店です。
私が花家を知ったのは、今を去る35年ほど前の学生時代、浅草に本拠を置く某有名料亭の御曹司の高校受験用家庭教師として、週二回浅草に通っていた頃に遡ります。
貧乏学生のお腹を最低の料金で最低限満たしてくれる焼きそばだけしか食べられない、何と専門店なのであります。
奇妙なことに花家のメニューには、焼きそばしか書いてないのです。店内の薄汚れた壁に貼ってある、黄ばんだ紙にこれもとても美しいとは言えない手書きの字で、書かれてある食べ物のメニューには、
焼きそば並300円、大盛400円」だけしか書かれてありません。
その他には、ビール・サイダー・コーラとだけしか書かれてありません。

皆さん!感動しませんか! なんと、よりによって焼きそばだけですよ! それも、高級品ではありません! 肉は見事に一切れも入っていません! もやしとキャベツと一緒に炒めて、最後に上から青のりをぱらぱらと振りかけてあるだけで、味は非常に素直なごくごく普通のいわゆるひとつの焼きそばです。
いわば、居直りとでも形容できるような、このいさぎよさ! 涙が出てきます!
さらに、さらに、店内の内装には、一切気を使わず、金はもちろんかけず、テーブルと椅子に至っては、それこそ「異人たちの夏」のセットに使われたのではないかと本気で見間違うほどの年代物です。どのテーブルもちょっとゆすれば、必ずガタガタと揺れてくれます。いやぁ~、すばらしい!

このメニュー、この値段、この店構えで、堂々60年!!
この経過年数については、花家のぶっきらぼうな女将さんに直接聞いたものですから、正確なはずです。
その時のやりとりもおもしろかった。

私「おばさん、この店何年くらいやってるの?」
女将「え~っ?(めんどくさそうに大声で)、う~ん?かれこれ60年!!」

いや~、無駄のない受け答え、This is Asakusa!であります。恐れ入りました!

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永代橋を登る(隅田川名橋シリーズ)

隅田川名橋シリーズ、今回は隅田川の橋の中で最も有名な永代橋に行ってきました。
なにしろ、6代目圓生十八番の落語に出てくるほど、江戸庶民に親しまれ、庶民の生活に重要な役割を果たした永代橋。
現在の橋は、大正15年(1926年)に架けられたもので、設計の参考にしたのは、ドイツのライン川に架かるレマーゲン鉄橋だそうです。橋の長さは185mの巨大橋です。
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最初の永代橋は、元禄11年(1698年)に、5代将軍綱吉の50才を記念して、上野寛永寺の造営用木材を使用して作られたと言われます。完成当初から、江戸第一の大橋として有名だったようです。

前にも一度書きましたが、この永代橋は文化4年(1807年)8月、雨で数日順延された深川富岡八幡宮の祭礼の日に、押し寄せる人並みに堪えきれず、落橋して千人を超す死者・行方不明者を出すという大惨事を引き起こしています。この事件を題材として落語「永代橋」が出来たわけです。

さらに、赤穂四十七士が、めでたく本所松坂町の吉良邸討ち入りを成し遂げた帰りに、この永代橋をわたって、高輪泉岳寺に向けて行進したと言われております。

さて、いよいよ本題に入りまして、私の永代橋に関わる思い出です。
永代橋界隈は、当時私の通った明治小学校の学校区が一部含まれておりまして、友達とよく遊び回った大変懐かしい橋であります。
それ以上に懐かしく思い出されるのは、今を去る30数年前、私がまだ20歳代の初々しい若者だった頃の話です。
当時、まだ怖いもの知らずだった私は(ちなみに今の私は、怖いものだらけですが)、酒の勢いもあって、友人と2人で、深夜、永代橋を「登った」のであります。
「登った」と書くと、一見意味不明でありますが、要するに橋のアーチ部分の上を歩いたと言うことであります。
まだおわかりいただけない方のために、下記の写真を用意しました。おわかりいただけますでしょうか?
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まるで登るための便宜を図るかのように、リベットのようなものが滑り止め然として打ち込まれているのであります。
高さはかれこれ20mもありますでしょうか?
もし、体のバランスを崩して落ちそうになったら、跳躍して隅田川に飛び込むつもりだったのですから、何をか言わんやであります。後日、昼間、改めて下から見上げてみると、仮に跳躍しても命はなかったと確信できました。
今でも、時折永代橋の下をタクシーなどで通りかかるたびに、今はもうない当時のかけがえのない我が若さを具体的な感覚として生き生きと思い出させてくれる貴重な経験であります。
しかし、よくやったよなぁ・・・

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勝鬨橋の思い出(隅田川名橋シリーズ)

隅田川に架かる橋のひとつに勝鬨橋があります。
戦いに勝つと、「エイ!エイ!オー!」とかちどきを挙げることがありますが、あれです。明治38年、死傷者4万人とも5万人とも言われた日露戦争の激戦地旅順陥落を祝って、現在地近くに「かちどきの渡し」と称する渡し船の基地が作られたのが、そもそもの由来です。
橋梁自体は、昭和8年着工、昭和15年完成の全長250mの堂々たる跳ね橋です。この橋の最大の特徴は、現存最古の跳開橋で、真ん中の部分(22m)が両側に跳ね上がる構造になっている事ですが、1970年以来35年間開かずの橋となっています。

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昭和43年頃までは、隅田川を大型船が通行できるように1日5回20分づつ開けたとされていますが、その後交通渋滞問題などで閉じたままになっているわけです。

今、この勝鬨橋をもう一度開けてみようという話が出ており、地元では「勝鬨橋を挙げる会」なる運動体までも出来ている模様です。今回の橋を開ける理由は、昔のように大型船を通行させるためではなくて、定期的な人寄せのためのイベントとして、月島や築地と一帯となった観光スポットとして、売り出そうということのようであります。
しかし、橋の管理者の東京都が調べたところでは、モーターをはじめ電気系統をほとんど交換しなければならないことが判明しており、再稼働のためにはなんと8億5千万円が必要なんだそうであります。
このあたりのコストパフォーマンスの分析は、大変微妙なものがありそうです。

ここで、私の勝鬨橋に関わる思い出をひとつ。
時は、私がまだ歩けもしないたった2才の幼児だった昭和20年代半ばに遡ります。
私の母親は、毎日のように私を背中におんぶしながら、当時晴海通りを走っていた都電に乗っておりました。2才の私のかすかな記憶では、その時、母の背中で目をキョロキョロさせている私の目の前に、大きな体のお相撲さんの姿が映りました。
ところが、私がお相撲さんの存在に気がつくとほぼ同時に、都電が突如停止してしまったのです。20分ほどでしょうか、かなり長い時間停車していました。
2才の私としては、お相撲さんがあまりにも体が大きく重かったので、その重みで止まったとばっかり思いこんだのですが、背中から母に聞いてみると「ちょうど、勝鬨橋が上がったのよ」とのことでした。そう言えば、跳ね上がった橋床部分のためか車内が急に暗くなったのを覚えています。

以上のお話は、私と母の記憶を寄せ集めた末の、私が2才の時の思い出なのですが、果たしてわずか2才の幼児にそのような鮮明で詳細な記憶があり得るか否かという問題が、次に残ります。
かの三島由紀夫の随筆によりますと、彼の場合は、生まれた時の産湯が入ったたらいの縁に、電球の光が反射しているのが、まぶしかったという、いわば0才の記憶があるそうです。私の場合は、今でもその時同じ都電に乗り合わせた相撲取りの体の大きさをはっきりと思い出せるような気がしますので、決して幻ではないと思うのですが・・・

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騎馬オペラ「ジンガロ」報告その2

前回に続いて、都立木場公園における騎馬オペラ「ジンガロ」の会場建設状況などの報告です。
前回コメント欄のRINAさんのコメントによれば、
「25頭の白馬たちは、それぞれのパートナー(乗り手)と一緒に恋人同様の生活をしているそうです。勿論、いつもいつも一緒、寝るのも一緒らしいです。」とのことです。
「馬と人間が寝るのも一緒の恋人同様の生活」とは、きわめて不可解で興味深い生活であります。

してみると、気になるのが、白馬25頭とパートナー25人は、一体、どこで暮らし、寝るのか?という問題です。
都内のホテルで、客室に馬を引き入れられ、同衾を許すホテルはおそらく存在しないと思われます(それともあるかな?)。さすれば、現場に新たに人馬同衾施設を作らざるを得ないはずと考えるのが、当然の流れであります。
そこで、建設現場の木場公園の多目的広場に寒風を突いて先ほど行ってきました。
すると、あるいは?と思われるそれらしい施設がありました。現場は、下記の写真のとおりです。

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この白い施設は、相当にできあがっている一方、会場の大テントは骨組みの一部が、ようやく立ち上がり始めたばかりのようです。

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馬の施設を早めに完成させて、馬をならす時間を確保しようとするねらいなのでしょうか?

チケットの方ですが、土曜よりも日曜の方が取りやすいような気がします。私は、ローソンチケットを利用してようやく確保できました。
RINAさんのサジェスチョンでは、
「イイ席にはイイ席の価値が確かにあって、観劇したものがイイモノであればイイモノでアル程、イイ席だったコトに感謝するモノです。反対に、席ランクを落とすコトで悔しい想いもアルので、コンサートやオペラ、イリュージョンみたいな催しモノを観る時は、一番イイ席で人生やココロの栄養を付ける為と投資するのデス。」とのことです。
私としましては、これもRINAさんのご意見を参考にして、なんとSS席1万8千円、家族三人で合計堂々5万4千円也となりました。
我が家としては、清水の舞台から飛び降りるような勇気が必要でしたが、ヨーロッパでは2年前からチケットを確保しなければならないようなので、最後の決断の言葉は「パリ行って観るよりは安いはず!」ということであります。

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木場公園でジンガロ

江東区木場に木場公園という都立公園があります。
面積は24ヘクタールもありまして、日比谷公園の1.5倍の広さがあり、私を含めて隅田川以東の下町の住人にとって貴重ないこいのオアシスとなっております。
公園内には、バーベキュー広場やテニスコート、そして植物園まであり、北側に隣接して現代美術館まであります。
したがって、この公園のすぐ近くに居住する私にとっては、極めて満足度の高い施設であり、かけがえのない散歩コースともなっているわけであります。

つい先日、いつもの週末にいつものようにこの木場公園を散策していた私は、いつも見慣れていたものがなくなっている景観に、あっと息をのんで足を止めました。
なんと、現代美術館と隣接した一番北側の通称「多目的広場」が消えているのです。多目的広場全体が、金網で囲われて、何か尋常ならざる大規模な建設工事が精力的に進められているのです。
好奇心旺盛な私は、金網に取り付けられている工事概要のパネルを見てみました。そこには、工事目的として、「ジンガロ日本公演」とあります。

「ジンガロ」????・・・韓国の焼酎か?あれは「ジンロ」だったっけ?「エマニュエル・ウンガロ」なんていうブランドもあったよね。それでもなさそうだ。してみると、一体なんなんであろうか??
広さも機能も極めて中途半端な存在とはいえ、いつも週末は、地元の老人達のゲートボール場や子供達のサッカー練習場として、ささやかな役割を果たしてきた木場公園の「多目的広場」を駆逐してまで建設されようとしている「ジンガロ」とは、そも何者ぞ?

好奇心旺盛な私はすぐ家に帰り、インターネットで調べてみました。
するとそこには、今まで聞いたこともない異様な情報が飛び込んできました。(インターネットって本当に便利だよね。便利さの醍醐味はこういう時にわかります。)
なんと「フランスが生んだ、馬と人の織りなす、極限の芸術」だそうで、「騎馬オペラ」などという聞き慣れないジャンルが命名されております。私にとっては、もちろん初耳のなんとも面妖なイベントらしいのであります。
(余談ですが、「騎馬」だから「木場公園」なのかなぁ?)

期間は3月12日~5月8日の約2ヶ月間、こんなに長期間の公演では本格的なテント工事も必要なのでしょうね。
公演回数ですが、馬の疲労も考慮しているのでしょうか、1日1回、1時間45分づつ、おまけに月・木の週2日は休演ですから、週休二日という余裕の公演です。
チケットは、プレミアシート2万4千円、一番安いA席ですら8千円ですから、相当お高めですが、かなりの人気で売れているようです。
しかし、有名人の寄せているメッセージを見てみますと、私が深く敬愛するあの小沢昭一大先生が絶賛して以下のコメントを寄せています。
”それは何と言ったらいいか、一種、哲学的な感動で、深い思索を強いられました。主宰者バルタバス氏の造り出すあの魔術的な幻想の世界が、日本でやっと観られるのです。ありがたい。こればっかりは自信を持ってご鑑賞をお薦めいたします。”
いやはや普段洒脱なあの小沢昭一さんが、めいっぱいまじめに、絶賛しているではありませんか。これだけでも驚きです。

定番の散歩コースを遮られた当初の不満もあっという間に忘れて、小沢コメントに一瞬で舞い上がってしまった私は、家族で行くと、チケット代はいくらになるか計算し始めている始末であります。

しかし、出演する25頭の白馬は、フランスから空輸するのでありましょうか?
毎日の公演に馬を運搬することは、考えにくいので、木場公園内に馬小屋テントも設営するのでありましょうか?
そうすると、我が家では時々ヒヒーンなどと馬のいななきを聞きながら就寝することになるのでありましょうか?
興味は尽きません。

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道玄坂リキパレスの思い出(続・渋谷を歩く)

前回に続いて、昔の渋谷の話をします。
前回の神宮通りから目を転じて、今回は道玄坂を上りたいと思います。
(前回書いたように、渋谷駅交差点は皿の底のようになっているため、神宮通りも、道玄坂も、宮益坂も、玉川通りも、東西南北どこへ行こうとしても、上って行かなければならないのです。)

道玄坂を上って左側、今はマークシティーの威容に圧倒されるが、ほぼその場所あたりに、我が国のプロレス界の元祖(したがってアントニオ猪木やジャイアント馬場の師匠)力道山がオープンしたリキパレスがありました。

力道山は、優秀なプロレスのプロモーターでもあったのですが、一方では、あまり成功しなかったものの、事業欲の旺盛な人でもありました。プロレス以外でも、さまざまな事業に手を出しています。例えば、ボーリング場、ゴルフ場、ヨット・ハーバー、トルコ風呂(これは一種のサウナで、本来の意味でのトルコ風呂ですので、誤解のないように)等々に手を出しています。
そして、最終的にこうした事業を統合した施設である総合スポーツセンターとして、さらに何よりもプロレス興業の常打ち会場として、昭和36年7月「リキパレス」をこの道玄坂にオープンしております。

力道山としては、おそらく自分が命がけで開拓して大成功させたプロレスという事業を、将来に永く形に残るものとして、そして何より「プロレスのメッカ」として、リキパレスの建設に執念を燃やしたのだと思います。当時は、地下1階、地上9階の建物で、道玄坂から渋谷を睥睨しておりました。

しかし、このリキパレスは、その後力道山が不慮の死を遂げた後、すぐに売却され、力道山の夢とは全く違う方向、すなわち、ボクシングジムそしてキャバレーへと変転した後、平成4年に取り壊されるという不幸な道をたどりました。

ここで、私が経験したリキパレスにちなむとっておきのエピソードを一つ。

昭和30年代、私がまだ小学生だったときの話です。
前回書きましたように、私の母方の祖父は、神宮通りで三味線屋をしておりまして、小学生時代、夏休みなどに、私はよく泊まりがけで遊びに行ったわけでありますが、祖父の家には風呂がありません。
そこで、銭湯に行くわけですが、近くの銭湯がたまたま休みだったため、当時はるばる道玄坂を上ったリキパレスの近くの銭湯にまで、私は歩いて行かざるを得なくなりました。
心細い思いをしながら、可憐な小学生の私が、やっとその銭湯にたどり着き、服を脱ぎ、ようやく湯殿に入ったとおぼしめせ・・・・。
そこに、信じられない光景を見たのです。ものすごい大男が、湯船の前であぐらをかき、若い男達2~3人掛かりで、その大男の体を洗わせているのです。
くだんの大男を私がよくよく見ますと、なんとなんと当時TVであの力道山と死闘を繰り広げていたドン・レオ・ジョナサンではあ~りませんか!
ドン・レオ・ジョナサンは、「人間台風」と呼ばれる当時売り出し中の実力派大型レスラーで、外人レスラーは当時みんなそうだったんですが、とっても怖い悪役レスラーだったんです。
小学生の私は、おそるおそる彼の脇を通って、湯船にようやくたどり着き、湯につかってホッとして湯船の真ん前にどっかり座る彼にこわごわ上目遣いの視線を移すと、なんと彼も私を見つめたのです。
その瞬間、全く予想もしなかった反応を彼はしたのです。すなわち、ニヤッと満面に笑みを浮かべたのであります。

世紀の悪役レスラー、必殺のハイジャック・バックブリーカーでで名を馳せた若き日のドン・レオ・ジョナサンのTVでは絶対に見せない不思議な笑顔でありました。

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今と昔の渋谷を歩く(神宮通り)

現在の渋谷は、一日中大変な喧噪である。とりわけ写真の渋谷駅前のスクランブル交差点は、おそらく日本一の混雑状況が、朝から深夜まで続く。
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私はほぼ半世紀前にこの交差点のすぐ近く、写真の交差点を神宮通り方向に(写真では上方向)5分ほど歩いた左側の三味線屋で生まれました。生まれたと言っても、母親の最初の出産であったので、母が実家で生んだわけである。この三味線屋は、今は当然残っておらず、ご覧のようにタワーレコードのはす向かいで若者向けのスニーカー屋になっている。隔世の感である。
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三味線屋とは、三味線の販売・修理を業としていたのである。
三味線は、ご存じのように猫の皮を張って音を共鳴させる楽器であるが、この猫の皮が消耗品であり、時々張り替える必要があり、その張り替え修理が主な収入源であったと記憶している。
このため、家の中に三味線用の猫の皮が積んであったためか(猫の皮といっても、精製してあるのできれいなものです)、猫も鼠もあまり寄りつかないというメリットがあったようだ。
当然、主たる客層は花柳界の粋なお姉さん達であり、祖父としては、いい商売をしているつもりであったかもしれないが、いかにせんあまりもうからない商売だったと思う。
しかし、そうは言っても当時(昭和30年代)は、みんなが貧しい時代で、神宮通りの左側、今のマルイシティーのあたりは、八百屋・魚屋・今川焼屋・煙草屋が平屋で軒を並べていて、いずれも同じような経済状態だったと思う。(なお、今の西武の場所には、渋谷松竹という洋画専門の映画館があった)
この祖父は、非常に頑固な人で、たとえば「お上のお世話になっては、申し訳ない」と言って、病床に着くまで、国民健康保険に入ろうとしなかった。「保険料を払うのだから、お上のお世話になるわけではないのだ」と子供達がいかに説得しても、どうしても聞き入れなかった。
当時の渋谷は、(今では全く信じられないことだが)駅前からずっと一帯が下町風のご町内づきあいであり、例えば交差点の写真の正面、大きな赤い看板の「三千里薬局」は、戦前からこの場所で営業する大地主だが、三千里のご主人は試供品を袋いっぱいに詰めては、祖父に「じいちゃん、持って行け」と押しつけたので、売薬には不自由しなかったと聞いている。

私の記憶では、昭和30年代(これも今ではとても信じられないことだが)、渋谷は新宿・池袋に比較して発展が著しく遅れており、とりわけ渋谷駅前交差点地域は、ちょうど皿の底のような地形であったため、ちょっと雨が降ると、いつでも特大の水たまりが出来て、通行不能となるのであった。
当時、渋谷区役所の区報だったと思うが、「いかにして渋谷に人を呼び寄せるか?」として、集客施設の誘致や排水設備の整備など公共投資の必要性について、真剣に議論されていたことを思い出す。現在の状況を思うと、本当に夢のようである。

当時から現在まで残っている建物は、極めて数少なくなっているが、先ほどの「三千里薬局」、そして何度も改修しているようだが鉛筆のようにタテに長いことが特徴の「大盛堂書店ビル」、さらにこれは意外なことだが、神宮通り右側では丸井渋谷店が昭和30年代初めには既に存在していたので、駅のそばの丸井の中でも屈指の古い支店なのではないか?
今のタワーレコードの黄色いビルのあるところには、戦後長い間国鉄の大きな荷物集配所があったことも、発展を阻害していた要因のひとつであったと思う。
それが逆に、現在のような、異常とも言える集客機能を持つに至ったのは、なんと言っても西武が渋谷に来たからである。

次回は、神宮通りから道玄坂に目を転じて、「リキパレス」についての思い出を書きます。

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旧岩崎邸庭園を歩く(続・無縁坂)

無縁坂のついでに、公開されている旧岩崎邸庭園にも行ってみました。修復なって、昨年から庭園ばかりでなく、住居の洋館・和館も公開されています。
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設計はジョサイア・コンドルで、明治29年建築ということですので、岩崎家初代弥太郎、2代弥之助の次の3代久弥氏の本邸と庭園で、洋館・和館・撞球室があり、国の重要文化財にも指定されています。
なお、エリザベス・サンダース・ホームの創立者澤田美喜氏は、この第三代当主久弥の長女であり、この邸で育ったはず。小さい頃から、男勝りで豪気な行動の人で、「女弥太郎」と言われていたそうであります。
邸内はかなり忠実に復元されており、ボランティアの説明者の方も誠実でていねいな説明ぶりで、気持ちよく見学が出来ますが、とりわけ今回復元された壁紙の金唐革紙(きんからかわし)は、興味深いものです。(写真参照)
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「金唐革紙」とは、江戸時代にオランダから入ってきた皮革工芸品を真似て和紙で作られたものです。明治期の日本で、大蔵省印刷局が製造し輸出された金唐革紙は、パリ万国博覧会で好評を博し、欧米の建築物の壁紙として使われました。日本では、明治期の洋風建築にいくつか見られ、この岩崎邸二階客室の二部屋の壁紙として貼られており、今回見事に復元されたわけである。
しおりとして、グッズにもなっており、お値段は2枚1組で1000円で、ちょうど手頃な気の利いたおみやげになります。

余談ですが、初代岩崎弥太郎は、土佐藩安芸の人で、ご存じ坂本竜馬とは遠縁にあたり、同時代人でもあります。若い頃は「悪弥太」と呼ばれるほど手のつけられないほどの暴れん坊だったようです。ある暴力事件で投獄されていた弥太郎を竜馬が助力して出獄させた事があると、司馬遼太郎は「竜馬がゆく」で書いています。さらに、司馬によれば、二人の性格は、貿易に対する興味や才能をはじめ、同じ体質を持っていながら、相性は悪く、仲が悪いと言った方がよかったようです。
岩崎弥太郎が、明治維新後、財閥として膨大な財を成し得たのは、土佐藩の実力者後藤象二郎が藩として処理しきれなかった負債を彼に全て負わせる代わりに、土佐藩の財産も惜しげもなく彼に譲与したことが基本となっていると、言われております。
歴史にifが許されるならば、もし竜馬が暗殺されずに維新後を生きていたならば、岩崎財閥の代わりに坂本財閥となっていた可能性は相当に大きいと個人的には思っています。
さすれば、今日、私は旧坂本邸庭園を400円払って見学することになっていたかも知れないんだよなぁ~。

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♪忍ぶ不忍・無縁坂♪を歩く(上野池之端)

♪ 母がまだ若い頃 僕の手をひいて
  この坂を登るたび いつもため息をついた
  ため息つけば それで済む
  後ろだけは見ちゃだめと
  笑ってた白い手は とてもやわらかだった
  運がいいとか 悪いとか
  人はときどき 口にするけど
  そういうことって たしかにあると
  あなたを見てて そう思う
  忍ぶ 不忍(しのばず) 無縁坂
  かみしめるような
  ささやかな 僕の母の人生 ♪

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今回は、ご存じさだまさしの畢生の名曲「無縁坂」を歩いてみました。
この歌は、さだまさしがグレープ時代の昭和50年に作詞作曲した曲で、あまりに美しい哀調の調べに、私の仲間内で、「さだまさしとは一体何者なのだ?」と、当時、大きな話題となりました。その感受性の鋭さと胃腸の弱そうな蒼白な顔から、「支えてあげなくては!」と、熱狂的な女性ファンに思わしめた当時のさだの風貌は、その後30年の風雪を経て、今や「こんなにふてぶてしいおじさんが、世の中に存在しうるのか!」と思わせる風貌に激変してしまいました。時の流れの残酷さを思い知らされる最も典型的なタイプであります。
また、「無縁坂」という歌について言えば、あまりのもの悲しさのため、どんなに盛り上がって熱くヒートアップしているカラオケパーティーでも、この一曲のイントロだけで、一瞬にしてしらけさせるという必殺の曲でもあり、カラオケパーティーでは歌ってはならないタブー曲のひとつともなっております。(たまに、このルールを無視する自分勝手な人がいるんですよね)

実際の所在地は、台東区池之端にある坂で、坂の上に無縁寺があったため、この名がついたと伝えられています。不忍池から不忍通りを隔ててすぐの場所にあることから、「忍ぶ不忍・無縁坂」と表現したようです。このあたりの語感の鋭さも、作詞家のさだとしての非凡なものを感じさせます。
また、森鴎外の小説「雁」の主人公岡田青年の散歩道でもあり、ヒロインお玉と出会った場所としても有名です。
写真の向かって左側のレンガ塀越しにかいま見える緑は、旧岩崎邸庭園の樹木であり、和・洋館含めて公開されています(次回レポート予定)。

歌詞から受けるイメージでは、「不幸な境遇にじっと耐える貧しい母子家庭」といったところですが、これが行ってみなければわからない典型的なケースでして、現代の実際の無縁坂は、超高級マンションだらけの高級住宅街のまんまん中にあります。
どこをどう探しても薄幸な母子づれなどおりません。幸福で幸福でしょうがないといった風情の有閑マダムだらけでありました。(言い過ぎかな?)

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ああ青春の両国公会堂(続・両国を歩く)

JR両国駅下車徒歩5分。回向院とは反対で駅の北側。両国国技館を挟んでさらに北。旧安田庭園の北西の角に、両国公会堂(旧本所公会堂)があります。
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日本庭園のうっそうとした緑の中に、壁は茶色というか暗いピンク色、ドーム型の特色ある建物が美しく映える。
これこそ、わが高校時代の文化祭(昭和40年前後)の音楽・演劇部門の会場となった両国公会堂なのであります。当時でも、もう既に十分老朽化しており、トイレの臭いが790席と言われる観客席にほんわかとただよっていたことを思い出します。
その後も約40年稼働し続け、「あまりの老朽化により危険なため、3年前から休止中」と張り紙がされているが、幸運にもまだ取り壊されずに残っているところに、40年前の高校生が、散歩がてら偶然通りかかったという訳である。
我が母校都立両国高校の最寄り駅は隣のJR錦糸町駅であり、文化祭の展示部門は、当然こちらの本校で開催されたのであるが、講堂がたまたま工事中か何かの事情で、音楽・演劇部門のみこの公会堂で開かれたというのが、かすかな私の記憶である。
私は、当時、二階席から観客の一人として見たのであるが、「文化祭なんて行かなくても良い」と見なしていた私にとって、全790席満員の盛況ぶりを目の当たりにして、我が学友達の異常な勤勉ぶりに驚かされたことと、当時流行だったエレキギターの激しい大音量が公会堂を揺り動かしていたことを思い出す。おまけに司会役の我が級友S君が、満員の観客を前にいささかも物怖じせず、自由自在に翻弄して笑いを取っているのを見て、我が校はいろいろな才能の巣なんだなぁと感心したことも思い出す。

両国公会堂は、そもそもは大正15年(1926年)オープン。実に堂々築後80年である。戦時中は食糧配給所、戦後は進駐軍の倶楽部と数奇な運命を経て、その後本来の会堂として、下町庶民の民謡やピアノの発表会の会場として活躍。当然、下町大空襲の惨禍も間近に見てきているはずである。
休止前には、質屋さんの協同組合が、年二回定例的に、質流れ品即売会をこの場所で開催しており、毎回、風物詩のようにマスコミで取り上げられていたので、それで覚えている人もいると思う。

最後に、私の高校時代の文化祭についての思い出をひとつ。
我が両国高校も当時は受験校のはしくれであり、高校三年生ともなると、受験勉強に専念するため、文化祭には参加しないことが常識であったのです。ところが、何をトチ狂ったか、我が同期の学友諸君は、自分達自身でも驚いたのであるが、9クラス全てが展示部門に参加したのであります。今考えると、青年期特有の一種の反抗心によるものと思われます。
ちなみに、我が3年F組の出し物は「お化け屋敷」であったが、開始一時間後に、徹夜して苦労して作り上げた落とし穴に、学外の女子高生が落ちた弾みに頭を打ってけがをしたため、わずか一時間で実行委員会から中止指令を受けてしまったというエピソードもある。
文化祭終了後、学年主任の教師が「俺も長い間この高校で教えているが、三年が全クラス文化祭参加とは聞いたことがない!おまえら、よっぽど自信があるんだろうな!受験の結果を見て、笑い話にならないことを祈るよ!」と言って顔いっぱいに浮かべた皮肉な笑いを、今でも鮮明に思い出します。
ちなみに、我が学年の受験結果でありますが、戦後ベビーブーム世代ということで相当の苦戦が予想されたのですが、幸い有名大学合格者数ランキングでは、我が校として戦後最高の全国第8位という破格の成績をおさめました。
なお、この成績は現在に至るまで破られておりません。

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何でもありの回向院(両国を歩く)

JR両国駅下車徒歩5分。京葉道路に面して、キャッチコピーが「日本一の無縁寺」と大きく出た回向院があります。近隣の下町で育ち、門前の京葉道路を何百何千回と往復していながら、ついに今回に至るまで、その正確な場所を知らなかった私にとっての幻のお寺であります。
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写真を見ていただければおわかりいただけると思いますが、入り口の間口が狭いためわかりにくく、奥に行って境内が広がっています。
1657年の明暦の大火(いわゆる振り袖火事)では、江戸市街の六割以上が焼け、10万8千人以上の江戸市民が死亡していますが、この時の死者を弔い、膨大な無縁仏の冥福を祈るために建てられたというのが、この回向院のそもそもの起源であります。その後も安政大地震(1855年)の死者2万5千人、近くは、大正12年の関東大地震の死者10万人の分骨を安置するなど、江戸時代以来の天変地異による膨大な死者が埋葬されています。さらに近くの東京都慰霊堂(関東大震災時に最も惨禍を極めた陸軍被服廠跡に建設)には、昭和20年3月10日前後の下町大空襲による死者7万7千人も安置されています。ここまででおわかりのように、ここ下町は、震災と戦災等相次ぐ災害により、何十万人という市民が横死してきた悲惨な歴史を持っているということを改めて教えられます。
こうした起源により、回向院は「有縁・無縁に関わらず、そして人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説く」という明快なコンセプトにより運営されています。要するに「何でもあり」なんです。
こうした理念により、鼠小僧次郎吉の墓の他、犬・猫等ペットのための大きな供養塔(写真)があり、彼らのための無数の卒塔婆が納められています。(失礼!鼠小僧はペットではありません)そのせいなのか、品の良い、いかにも高級そうな猫が何匹か境内を悠然と闊歩しております。
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さらに、回向院の「何でもあり」ぶりを示すのは、本来、浄土宗の寺院のはずなんですが、山門の石碑には「諸宗山 回向院」を名乗っているんですね。

「何でもあり」回向院としてもうひとつ特筆すべき事は、江戸後期に勧進相撲の定場所として定められ、明治末期までの76年間「回向院相撲」として相撲の歴史に一時代を築いたということです。

最後に極め付きの「何でもあり」ですが、江戸中期には全国の有名寺社の秘仏・秘像を臨時に回向院に招いて「移動ご開帳」が行われたということが、六代目圓生の落語なんかには出てくるんですよ。要するに、隅田川以東の庶民の信仰の便宜を図ったものらしく、これが、大変な人出だったらしい。
この盛況を物語る例として、文化4年(1807年)8月15日、折しも雨で順延となった深川富岡八幡宮の深川祭りと回向院の「移動ご開帳」が重なったため殺到した人出により永代橋が落ちたと、圓生は言っております(落語「永代橋」)。

いずれにしても、ひょっとすると、娯楽の少ない江戸時代、回向院は、隅田川以東の下町庶民にとっての一種の総合アミューズメント施設だったんじゃなかろうかと思うんですが・・・・・どうかな?

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高島平周辺を歩く(赤塚公園&乗蓮寺)

咲き始めた桜につられて花見に行きました。今まで行っていない場所がいいと思い、都営三田線高島平駅で降りて、赤塚公園に行きました。高島平は初めてだったのですが、さすが二万世帯と言われているだけあって、何もかもデカイ!見事なベットタウンです。古くは武州徳丸原として、幕末の砲術家高島秋帆により、幕府の西洋式砲術訓練の場となったところです。黒船が来る前の段階で、西洋列強に蹂躙されている清国の情報をいち早く捉えて、砲術訓練の重要性を説いた高島秋帆は偉大です。しかし、せっかく練習しても、結果的には銃火気の進歩のスピードにはついて行けなかったんでしょうね。鳥羽伏見での幕軍の大砲の命中率は、ほとんど絶望的だったと言われております。
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赤塚公園は、首都高池袋線の高架と平行して細長く広がる公園で、桜は六分咲き程度でしたが、却って人が少なくじっくり楽しめました。
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この公園は、可憐なニリンソウの都内最大の自生地としても知られています。

花見の後は、板橋区立郷土資料館、区立美術館、区立植物園とはしごして見て周りましたが、びっくりしたのはどこも無料だったことです(区立美術館は、ちょうどディック・ブルーナ特別展開催中につき、入場料500円、普段は無料)。これはいいことなんだろうか?首を傾げてしまう。少なくとも小生は、都区財調制度の矛盾を感じてしまうのです。

この近所には、もうひとつ開山以来600年の「乗蓮寺」というお寺があります。
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このお寺には、奈良・鎌倉に次いで我が国第三位の大きさの東京大仏があります。しかし、昭和54年建造と聞かされ、新しさにビックリ!
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このお寺には、その他に、入り口に閻魔王が鎮座しており、階段を上がれば、七福神、がまんの鬼下の写真)、役の行者などの石像がいらっしゃります。あまりに多彩で、ご覧のようにおもしろいけれども、何かあざといんだなぁ~。
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ゴジラを歩く[品川八ツ山橋]

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旧東海道の起点の面影を残すこの「八ツ山橋」は、言わずと知れたあのゴジラが今を去るなんと50年前の昭和29年、歴史的な第一回作品において、太平洋の深海で眠っていたものを、水爆実験で眠りを覚まされ、初めて東京湾に来襲し、JRの品川操車場あたりで一暴れした後、その一撃必殺のバカ力で粉砕した施設です。
言い換えれば、ゴジラが生まれて初めて破壊した公共施設第一号の栄誉をになっているわけであります。

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[樋口一葉を歩く]本郷菊坂周辺

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新たに五千円札に進出し、いよいよブレークの兆しのある樋口一葉が暮らした場所です。当時の雰囲気が相当残っている貴重な一角です。この井戸は、当時のままだそうです。この写真は、北から南を見た角度であり、ご覧のように南側が崖であり、昼でも日はほとんど差さない構造である。また、かなり低い土地になっており、当時は今のように排水設備は整備されていなかったはずであり、雨が降った場合、相当の湿度であったと思われます。いずれにしても、結核になって当然の環境なんだよね。彼女が仮に今を生きていたなら、やはり最年少の芥川賞を狙ったんでしょうに!
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これが一葉がいつも通っていた元伊勢屋質店です。彼女が18歳で父親が死に、母と妹の生活を支えながらの文学活動だつたそうで、全く今では考えられないよね。
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この階段が一葉の家と質屋をつなぐ、いいかえれば菊坂下道と上道をつなぐ階段です。なお、質屋までは、50mくらいでしょうか、恐ろしく近いんだよね。余談ですが、一葉は24歳で死んだんですが(想像を絶する天才の夭折だったわけです)、その葬式に伊勢屋質店の主人は相当額の香典を包んだと伝えられていますので、かなり頻繁な質屋通いだったんでしょうね。

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