もしも坂本竜馬が新撰組に入隊していたら

はじめにお断りしておきますが、今回は「読んだぞ!リスト」でご紹介した竹下倫一著「龍馬の金策日記(祥伝社新書)」からの受け売りです。

Sryouma 結論から先に申し上げますと、坂本竜馬と新撰組は、実は相当近い位置にあり、まかり間違えば竜馬は相当高い確率で新撰組の一員になっていただろうという、チョット聞けば眉唾としか思えない暴論をあえてあまりの面白さに耐えかねて、ご紹介しようとするものです。

まず、竜馬が土佐藩を脱藩した文久二年(1862年)、竜馬は半年後には江戸に滞在することになるのですが、竜馬の江戸滞在中に江戸で新撰組の前身となる団体が結成されています。庄内藩脱藩の口八丁手八丁の浪人清河八郎が幕府に建白して、採用された「浪士隊」であります。
当時、幕府は治安を乱す元凶であった浪士たちにことのほか手を焼いており、その対策として逆に浪士たち自身を取り立てて、京都の警護をさせようと言うのが、「浪士隊」設立の趣旨であります。早い話が、毒をもって毒を制しようとしたわけです。

この時、浪士隊幹部として取り立てられるべき12人の浪士の名簿が清河の意向を反映しながら幕府の手によって作成されています。このリストには、当時の浪士たちの中で人望もあり、吸引力のある名だたるスター浪士たちがリストアップされています。
その12人のうちのひとりに坂本竜馬の名前が入っていると言うわけであります。

実は、竜馬と清河八郎の間には、予想を超えたかなり深いつながりがあります。
まず、竜馬は江戸の千葉貞吉道場で北辰一刀流を学んでいます。清河はこの千葉道場の先輩に当たります。
江戸時代の剣術の流派というものは、今で言えば学閥に当たるのでしょうが、さらに道場まで一緒と言うことになりますと、さしづめ「同窓・同ゼミ」に相当することになります。
加えて、竜馬と土佐勤皇党の同志である間崎哲馬は、清河とは「虎尾の会」という尊皇攘夷運動団体の仲間でもあったのであります。この結果、清河の意向を受けた浪士隊幹部候補の名簿に、竜馬の名前がリストアップされたのは自然な成り行きだったのです。

この時期、竜馬は勝海舟と出会い、勝の作った神戸の海軍塾に参加しておりますが、勝海舟の海軍塾の設立趣旨は清河の浪士隊のそれと驚くほど似通っているのです。
すなわち、徒に犠牲的な行動を起こして無駄に死んでいっている浪士たちのエネルギーにしっかりとした方向性を与えるために、名だたるスター浪士たちを人寄せパンダにして、他の多くの浪士たちを取り込みながら「船舶の実地訓練に従事せしめようとした」のが勝の海軍塾、「京都の治安警察に当たらせようとした」のが新撰組だったわけです。

そしてこの時、こうした同じような設立趣旨を持った二つの団体の奇しくも双方から人寄せパンダとして誘われたのが、竜馬だったわけであります。
竜馬はあるいは清河八郎の企画に胡散臭さを感じたのでありましょうか、神戸海軍塾の方を選択したわけであります。

もしこの時、竜馬が清河の浪士隊を選択していたと仮定するならば、あるいは「新撰組局長坂本竜馬」が誕生し、水戸藩の芹澤鴨と組んで近藤勇や土方歳三たち多摩試衛館一派を駆逐して、違う新撰組を作っていたかもしれません。
少なくとも全く同時期に組織された「海軍塾」が仮になかりせば、冗談ではなくて相当の可能性があったはずです。
そうなれば、あの竜馬のことですから、あるいは近藤勇たちを説得して、新撰組を海援隊にしてしまうことなど朝飯前であったはずであります。
あるいは「新撰社中」というのも棄てがたいですねぇ。

どうです皆さん、夢が膨らんできませんか・・・・・

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